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第3章 思慕 3

 劉備りゅうびの出陣が決まると、尚姫しょうきは嘆き悲しんだ。もともと政略結婚ではあったが、今では劉備との仲も申し分なく、惠姫けいきをはじめ荊州の人々ともようやく打ち解け、公子阿斗あともすっかり尚姫になついて、幸せな日々を送れるようになった矢先のできごとだったからだ。

 ある日惠姫はそんな尚姫を見舞って、城の庭を横切り奥から表へ向かう渡り廊下を、浮かぬ気持ちで歩いていた。なぜか惠姫には、今回の出陣に悪い予感がしてならなかった。

 惠姫は顔をふと横の庭の方へ向けた。手入れをされた低い庭木の向こうには、紅葉の始まりかけた少し背の高い木立がある。惠姫はおやと思ってその木立に目を止めた。

『誰かがいる・・・』

 誰かはわからないが、隠れるようにじっと立っている人影が見えた。惠姫は音を立てぬようそっと庭へ降りて、その人影の後ろから近づいた。

『あれは、士元しげん様・・・!』

 その後姿は、まさしく龐統士元ほうとうしげんだった。こんなところで人目を避けるように、何をしているのだろう・・・。よく見ると手に何か持って、それをじっと見つめている。

『何かしら・・・』

 惠姫は目を凝らした。それは益州のくわしい絵図面だった。惠姫は息をのんだ。

『どうして士元様があんなものを・・・それに士元様が益州の絵図面を持っているなど、玄徳げんとく様も誰もご存じない・・・なぜこんな大事なことを隠して・・・』

 その時、惠姫の立てたわずかな葉ずれの音に、龐統が振り向き一喝した。

「誰だ!」  

惠姫はそこに立ちすくんでしまった。


 龐統は惠姫の姿を認めると、深く嘆息した。

「・・・姫。絵図面をご覧になりましたね・・・」

 惠姫は答えなかった。だが唇が、かすかに震えていた。

「城の奥なら女子しか来ないから、絵図面を見られても何だか分かるまいと思っていたが・・・。よりにもよって・・・ただ一人分かってしまう姫に、見られるとは・・・」

 その時龐統が実に悲しそうな顔をしたように、惠姫には見えた。

『士元様は、何をお考えでいらっしゃるのか・・・』

 突然龐統が惠姫の手をつかみ、強く引いた。

「人が来ます。こちらへ!」

 龐統は惠姫をさらに高い木立の、茂みの中へ導いた。そして庭石の上に惠姫を座らせると、自分はその向かいの石に腰掛けた。

 気まずい沈黙が続いた。いたたまれなくなった惠姫が、それを破った。

「・・・士元様。どうしてあのような絵図面を・・・お持ちなのですか。それを、どうなさるおつもりなのですか・・・?」

 龐統はじっと惠姫を見た。

「それは・・・今は言えません」

 惠姫は不安そうな目を龐統に向けた。

「姫、しかし私はこのことに自分のすべてをかけているのです。どうか頼みます。私が益州の絵図面を持っていることを、誰にも言わんでくだされ。龐統の一生の願いです。頼みます、姫!」

 龐統は頭を下げて惠姫に頼んだ。真意は理解しかねたが、惠姫は龐統を信じようと思った。きっと悪いようにはなさるまい・・・。

「・・・わかりました。決して私は、誰にも言いません」

 しかし龐統は鋭く言った。

「いいや、姫。私はあなたを信用するわけにはいきません」

 今までの龐統からは考えられぬ、冷たい言いようだった。

「・・・なぜ、そんな言い方をなさるのです・・・」

 惠姫は悲しそうに龐統を見た。

「確かに姫は、殿に黙っていて下さるでしょう。関羽かんう殿や、張飛ちょうひ殿にも言わないで下さるでしょう・・・しかし私は、ただ一人の男に対しては、姫を信用できないのです」

 惠姫は龐統が何を言いたいのかが、わからないでいた。

「・・・孔明こうめいだ。姫は孔明に対しては、いつまでも隠し立てをしていることはできますまい」

「・・・なぜ、そんなふうにおっしゃるのですか・・・」

 一息おいて、龐統が言い放った。

「・・・それは姫が孔明に・・・恋愛の情を持っているからです」


 瞬間、周りの世界が消え失せた。

視野が真っ白になり、惠姫の一切の思考が止まった。

激しい動揺でしばし呼吸をするのも忘れ、やっとのことで次の息を継いで、かろうじて自分を取り戻した。

「・・・言い方がきつかったかもしれない。姫も御自分ではお気づきでなかったことでしょう。しかし私はそう言い切ることができる。私は荊州に来てからというもの、ずっと姫を間近に見ていて、それを確信したのだよ」

 惠姫はうつむいて、両の手を爪が食い込むほど握り締め、体の震えを押さえていた。

「姫、私に本当によくしてくれたあなたを、こんなふうに苦しめることを許して下され・・・。だが、私の計画が殿や孔明に今知れてしまったら、それはすべての終わりを意味するのです。・・・私のしようとしていることは、誓って殿のためになることです・・・だからどうか姫、わかって下され」

「・・・・」

「さて、姫。そこであなたに、孔明と離れてもらう必要がある」

 惠姫は何も言うことができなかった。龐統の言うとおりにするほか、もうどうしようもないということが、わかっていた。

「・・・つまり姫には私や殿といっしょに、今度の出陣に加わっていただきます。私は殿に、姫を救陣(負傷兵の手当を行う陣)の副校尉ふくこういになさるよう勧めてまいります。姫は慈療所で今までどれだけ多くの人を救ってきたか・・・呉普ごふ殿も言っておられた、姫には人の心に働きかけて、病や傷の回復を早める不思議な力があると。益州への道は遠く、わが軍は兵の補給を得ることも容易ではなくなるであろう。今度の出陣は、本当の意味でも姫が必要なのです。ただ姫を溺愛しておられる殿が、簡単に御承諾下さるとは思えないが・・・救陣校尉こういとなられる呉普殿にも、口添えを頼むとしよう」


 自分の部屋に戻ってから惠姫は泣いた。

寝台の上に伏して手巾しゅきんを咬み、嗚咽おえつの声を殺して泣いた。

何が悲しいのか、なぜこんなに涙が出るのか、自分にもよくわからなかった。

『士元様の言われたとおり・・・やはり私は、本当に孔明様を・・・』

 自分は巫女ではないか。その力をもって平和の世を作るために働き、殺された一族への供養とするため、女としての人生を捨てると決めた・・・それなのに・・・。

 ただ確かに思えることは、龐統の言うとおり、自分が孔明に対していつまでも隠し立てをすることは、できそうもないということだった。それからもう一つ龐統の言ったこと・・・救陣に従軍し一人でも多くの負傷兵を救うことができれば、恩人である養父劉備のためにもなるであろう。

もう一度自分の生きる目的を確認し、惠姫は決意した。叶うことのない想いを固く封印し、孔明と離れ益州へ出陣することを・・・。

 惠姫は私房を出て、劉備のところへと向かった。


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