第3章 思慕 1
ある晩、惠姫は夢を見た。高くそびえている大木に雷が落ち、一瞬のうちに炎に飲み込まれ、跡形もなく燃え尽きてしまう夢だった。はっとして惠姫は飛び起きた。
「今の夢は・・・」
すぐに姉に習った夢占と照らし合わせてみた。それによると惠姫の知っている誰かが、亡くなったことを示していた。一族を殺された惠姫の知っている者など、数は多くない。
「・・・周瑜・・・将軍」
ふと、その名が思い起こされた。周瑜が何か病を得ている様子だったことを、情人にされていた惠姫は気づいていた。
夜着の上に上衣を羽織ると、惠姫は部屋の窓を開けた。冷たい夜風が部屋にしみこむ。空には鮮やかに冬の星座が広がっていた。
そのとき、目の前をすっと大きな流星がよぎった。その星に引かれるように惠姫は部屋を出た。寝静まる城の廊下を歩き続け、いつしか一番はずれの、外に面した回廊まで来ていた。そこには天に向かって黙想する人影があった。
『あれは、孔明様・・・』
惠姫は柱の蔭で息を殺して、夜空を仰いでいる孔明の様子を伺った。
「誰か、いるのですか」
孔明が人の気配に気づいて誰何した。惠姫は柱の陰から歩み出た。
「惠姫様。どうなさったのです、このような時間に・・・」
驚きの表情の孔明に、惠姫は声をひそめて尋ねた。
「流れ星を見たのです・・・とても大きな。・・・私の夢占でも誰かが亡くなったと出ました。教えて下さい孔明様、あれは誰の星なのですか・・・?」
「姫、それは・・・」
孔明は言い淀んだ。伺うように孔明を見上げながら、惠姫は言ってみた。
「もしや・・・周瑜将軍では・・・」
「・・・恐らく・・・そうでしょう・・・」
孔明は押し殺した声で、ゆっくりと答えた。
その瞬間、今まで何の感慨も沸いてこなかった惠姫の胸の中で、何かが砕けた。惠姫の変化に気づかず、孔明は続けた。
「姫、私は殿に江東へ行くことをお許し願うつもりです。・・・以前お話ししたこともあると思いますが、私は周瑜将軍の武人としての英知には感服していました。才能に溢れながら夭折した将軍の口惜しさを思うと・・・是が非でも江東に行き、霊前で追悼の言葉を述べたいのです」
先日小喬の名を聞いても、少しも動揺を見せなかった惠姫である。月日が経って凌辱の記憶が薄れたのであろうと思った孔明は、ありのままの気持ちを惠姫に話した。
「はい。わかっておりま・・・す」
きちんと受け答えしたつもりだったが、語尾が途切れた。いぶかしんで孔明が惠姫を見ると、惠姫は放心した表情で、静かに涙を流していた。
「姫・・・?」
打ち据えられてもいじめられても、決して泣くことのない惠姫が、泣いている。周瑜を憎くはあろうと思えても、その死に惠姫が泣く理由が、孔明には分からなかった。
「どうなさったのです、姫・・・」
不審そうな孔明の視線に泣き止もうとするのだが、惠姫はできないでいた。
何かが胸の奥で砕けたあと、心の奥深くに閉じ込めておいた江東での記憶が奔流のように溢れ、惠姫はそのただ中に立ち尽くしていたのだった。
・・・誘拐同然に連れて来られた巫女たちは、間もなくそれを命じた大都督(だいととく:軍の最高司令官)周瑜の前に引き出された。周瑜は彼女らを一瞥すると、開戦までまとめて閉じ込めておけと部下に命じ、立ち去ろうとした。
「・・・!」
そのとき、周瑜は視界の片隅に惠姫の・・・壱与の姿を捕らえた。
『桂仙・・・!桂仙ではないか・・・』
周瑜はまじまじと目に止めたその巫女を見つめた。そして壱与一人だけを他の巫女とは別の小館に幽閉し、多くの美しい衣装と侍女を与えた。だがこのときの壱与は、たった一人の身寄りであった姉を失った直後で完全に心を閉ざしており・・・我が身に何が起こっているのか理解しようともせず、魂の抜け殻と同じであった。
周瑜は足繁く壱与の所に訪れた。だが奇妙なことに手込めにもせず、目も合わせず一言も口をきかない壱与を責めるでもなく、ただただ壱与の顔を見てゆくだけであった。
そんな日々が続く中、いつしか壱与の意識に現実が戻り始めた。我に返った壱与は、それでも相変わらず自分の顔を見にくるその男を無視し続けたが・・・時折独白のように語られるその男の言から、自分がこの男の自死した恋人の形代なのだと悟った。
周瑜は壱与をその恋人の名で桂仙と呼び、主君の命に逆らえず勧められた結婚をし、そなたを捨てたことを悔やんでいると、幾度も詫びるのだった。
だがその日は、その日だけは違っていた。いつもの様に壱与を訪れた周瑜だったが、終始何も語らず、壱与の顔を見ているようでいて心はそこにあらずという沈痛な気配を感じ、壱与は初めて顔を上げ、その男を見た。
『・・・!』
思わず息を呑む、美貌であった。
この世のものとは思えぬほど整えられたその容姿は、男であるとか女であるとかを全く越えた美しさであった。
だがしかし・・・今その面には、美貌でも隠せぬ深い苦渋の色が満ちていた。壱与の預かり知らぬことではあったが実はこの日、周瑜は「苦肉の計」を行い・・・つまり曹操の陣営に偽の投降をさせるため、自らの手で腹心の部下黄蓋を鞭打ちの刑に処し、半死半生の目に合わせたのだった。極秘のこの計の成就のために冷厳な最高指導者を演じねばならず、陣の内では本心の苦しさを懸命に押し隠さねばならなかった。
誰にも遠慮する必要のない壱与の小館来て不覚にも心の枷が外れ、いつしか周瑜の両の目から、涙があふれ出していた。壱与は驚きのあまり周瑜の顔を見つめたまま、目をそらすことができなくなっていた。孫権軍の最高指導者、大都督でありながら、なぜこの人はここで涙しているのか・・・巫女としての感覚ゆえか人の心を敏感に感じ取る壱与は、思わずその憂いのあまりの深さに同情し、初めて男に向かって言葉を発してしまった。
「いかが・・・なされたのでございますか・・・?」
涙をたたえたままの切れ長の瞳が驚きに見開かれ、後悔する間もなく次の瞬間壱与はその男の胸に抱きすくめられていた。
「桂仙・・・ああ桂仙・・・!」
嵐のような激しい口づけと愛撫の波に飲み込まれ、壱与は嫌も応もなく男のなすがままに犯されていった。
自身が凌辱されていることを感じながら、それでも壱与は男の言いようのない苦しみの深さと・・・そしてあくまでもこの男の求めているのが亡き恋人の慰めであって、壱与を犯しているつもりなどないことを感じ取っていた。
周瑜は恋人の名を呼び続け・・・それは凌辱と思えぬほど切ないひとときであった。
壱与は自身の声を立てぬよう、堅く口を引き結んでいた。だが処女の破瓜の瞬間、苦痛の余り思わず悲鳴を上げ・・・壱与は失神してしまった。
意識を取り戻したとき、壱与は衣を整えられ、周瑜の腕の中にいた。
あるいは打ち捨てられているかもしれないと思っていた壱与は、心底驚いて顔を動かし周瑜を見上げた。
「気づいたか・・・?」
あくまでも優しい声であった。そしてその指は、壱与の髪を愛しそうに撫でていた。
「そなたは桂仙ではない、それなのに・・・さぞ恐ろしく思ったであろう。すまなかった・・・もうこのようなことはせぬ・・・」
囲った小娘に対する言葉とも思えぬ、言いようであった。だが壱与は、それでも周瑜の情人になることを受け入れた訳ではなく、この時を限りに再び口をきこうとはしなかった。 このことがあってからも周瑜は変わらず壱与を訪れたが、約束どおり二度と無体はせず、何事もなかったかのように以前同様顔を見てゆくだけであった。
はっきりとした周瑜の記憶はこれだけである。なのになぜ涙が止まらぬのか、惠姫自身にも解せなかった。
『もしや・・・』
孔明には分かってきた。処女を奪われたはずなのに、惠姫が天から巫女の任を解かれなかったのはなぜか。江による禊など、普通では考えられない。その行為は、あるいは凌辱ではなかったのか・・・わずかでも互いに想いがあり、惠姫はただ身を汚されたのではなかったということなのか・・・。
涙を止めらぬままの惠姫を孔明はそっと抱擁し、耳元にささやいた。
「もしや姫は・・・周瑜将軍のことを・・・」
惠姫は泣きながら、首を横に振った。
しかし本当のところ、自分自身にもわからなくなっていた。あの状況で周瑜への想いがあったかなど・・・もちろんつゆほども考えてみたことはなかった。だが孔明は、ひそかにそのことを確信していた。けれども今となっては、それはもっと酷に惠姫の傷を広げるだけのことになってしまうのだ・・・
孔明は急に惠姫がひどくかわいそうに思えてきて、抱擁の手に力を込めた。
「・・・そうだ、姫。私が江東に行くに当たり、将軍の霊前に捧げる供物を姫の手で用意しては下さいませんか。他には気のきく者もいないことですし・・・」
「・・・はい、孔明様・・・」
惠姫の涙はようやく止まった。この日を限りに、惠姫は周瑜の記憶と決別した。
孔明の腕に抱かれながら、惠姫は心の中に不思議なあたたかみが満ちてくるのを感じていた。それは今までに感じたことのない、初めての気持ちだった。