第1章 再会 1
江を渡る冬の季節風が壱与の頬を刺すようによぎり、下した黒髪を芯まで冷やして後ろへなびかせていた。
ここは長江のほとり、その雄大な流れが大きく湾曲するところ、赤壁。
足もと遥か下に灰色のよどんだ川面があり、対岸正面には傀儡皇帝を擁立し勢力拡大をもくろむ覇者、曹操孟徳率いる大船団が、川霧の中にもその圧倒的規模を見せつけていた。
しかしそれらは壱与には見えない。目を開くことも口をきくことも禁じられ、いまはただ緊迫した気配の中、吹き付ける風を正面から受け、たたずむのみであった。
『おまえは何もせずともよい・・・』
曹操の宣戦布告を受けた江東の領主、孫権仲謀の大都督(だいととく:軍の最高司令官)、周瑜はあのとき確かにそう言った。
口をきくつもりはもとよりなかったが、思わず壱与はその男の顔を見上げた。燭台のほのかな明かりの作る影が、整い過ぎた男の顔立ちを、さらに際立たせていた。
『意外に思うのも無理はない。もとはそなたたち巫女に、我が水軍への勝利の神風を呼んでもらうつもりであったのだからな。だが今回は何もするな、あの男にやらせておけばよい。東南の風が起これば、戦だ。そのとき勝利は確実に我が孫権軍のものだ・・・』
一度言を切った周瑜は、壱与を見つめた。視線が合う前に、壱与はすっと目をそらした。
『・・・だがな、風は起こらずともよいのだ。風が起こせなければ、堂々とあの男を殺す口実ができる。もし本当に風を起こせたとしてもその時点で用済みだ、どちらにしろ始末する。私にはあいつが邪魔なのだ。・・・わかるか、桂仙』
周瑜の指が、壱与の髪に触れようとした。反射的に壱与はわずかに身を背けた。
『桂仙・・・』
端麗な男の容貌に、落胆の色がよぎる。
『・・・もうあのような無体はせぬ。だから私を見て、ほほ笑んでくれ・・・桂仙』
壱与は無表情で顔を伏せた。周瑜はじっと壱与を見つめていたがやがて短く嘆息し、その場を立ち去って行った。
数日後、壱与は幽閉されていた小館からふた月ぶりに外へ出された。周瑜に与えられていた華やかな衣装を白一色の巫女装束に変えさせられ、他の巫女たちとともに急ごしらえの祭壇の周りに集められた。
『これが・・・祭壇?』
長江を見下ろす断崖の上に作られたそれは、三段に高く土を積み上げただけで何の装飾もなく、祭壇というより要塞のような外観であった。しかも奇妙なことに壱与ら巫女は何もせず、ただ目を閉じ口をつぐみ、祭壇を上から段状に取り囲んで立っていろと命じられた。壱与は最上段の間近、目もくらむような高みに配置された。
そして瞳を閉じ・・・頬をよぎる風の音と、下を流れる江のかすかな音のみの世界となった。
静寂は、壱与を否応無く一つの考えへと導く。
『・・・ここから身を投げれば、きっと死ねる・・・』
だがこの高さから落ちてゆく自分の姿を思い浮かべると、やはりそれは恐ろしかった。生きていることに執着がなくても、そう簡単には自害などできるものではない。壱与は肩を落とし、小さく嘆息した。
そのとき祭壇の下のほうから、一つの沓音が近づいてきた。
狭い階段を最上段に向かい、自分のいる方にその音は上って来た。背の高い男の気配を、目を閉じたまま壱与は感じた。
ふと、その男が立ち止まり、自分を見ている気がした。
『私はあいつを始末する・・・』
周瑜の言を思い起こし、壱与は身を固くした。
だがすぐに男の影は動き、さらに上へと壱与の脇を過ぎて行った。
『・・・気のせい・・・?』
沓音は最上段で止まった。そしてそのまま、再び静寂の時が流れた。男は祈祷をするでもなく、祝詞をあげるでもなく、ただじっとそこに佇んでいた。
どのくらいたったのか、壱与の面に当たっていた風が、ふと止まった。
次の瞬間後ろから押されるような風が突如わき起こり、壱与の長い髪を体に打ち付け、前へとなびかせた。
『あ、風が・・・?』
堤防に並べ立てられた孫権軍の軍旗が、一斉に向きを変え太鼓の連打のようにはためいた。
『これは東南の、風だ・・・!』
そのとき祭壇の下のほうから、地響きが上って来た。
「周都督の命にて、首をもらいうけに来た!諸葛亮、覚悟っ!」
『え・・・!』
その声に、壱与は思わず禁を破り目を開けた。数十名の兵が刀を抜き、最上段めがけて駆け登ってくる。下のほうの巫女たちが訳の分からぬまま、兵を避けあわてて散って行くのが見える。
『諸葛亮・・・!?』
壱与は後ろを振り仰ぎ、その男を見た。見覚えのある、端正な白い面。この非常時にも動じぬ、落ち着いた物腰・・・
「・・・孔明様!」
壱与が叫び、その声で男は彼女を認めた。
「やはり莎英、いや壱与姫か?なぜここに・・・!」
しかし話をしている場合ではなかった。兵たちは間近に迫っている。
「周瑜はあなたを殺すと言っていました、早く・・・!」
壱与が言い終わらぬうちに、兵の一人が孔明目がけて飛び刀を投げた。壱与の体は無意識に動き、その前に立ちはだかっていた。
「あ・・・っ」
脇を引きちぎる重い痛みが、壱与を後ろへ弾いた。孔明がその体を受け止めた。
「壱与姫・・・!」
その時突如、兵たちが悲鳴をあげながら将棋倒しに崩れ、階段を落下していった。孔明の隣にいつの間にか屈強な偉丈夫が一人立ち、先頭の敵兵を切りつけ後ろの兵の上に投げ倒していた。
「軍師(ぐんし:参謀)殿、退路を確保いたしました!こちらから降りて船にお移り下さい」
「ご苦労だった、子龍殿・・・」
助けに来た趙雲子龍に守られながら、孔明は腕の中の壱与を見た。白い巫女装束の脇のところが、鮮血に染まっている。壱与は意識を失う寸前に、最後の力を振り絞って口を開いた。
「どうぞ私を・・・お捨て置き下さい。やっと死に場所を、得ることが・・・できました。このまま・・・死なせて下さい・・・」
「何を言うのです、壱与姫・・・!」
さらなる追っ手が来ないうちに、と趙雲がせかした。
「子龍殿、すまぬがどうしてもこの巫女姫を連れて行きたい。姫を頼む・・・!」
壱与は孔明の腕から趙雲に渡され、ここで壱与の意識は混迷した。
祭壇の下では、孔明が逃げたとの知らせに駆けつけた周瑜が、呆然と無人になった最上段を見上げていた。
「おのれ孔明・・・!」
悔しさで激高し頭に血が上っていた周瑜であったが、一人の兵の耳打ちを聞くと今度は色を失い青ざめた。
「何だと・・・!なぜだ、なぜそのような・・・」
本当です、とその兵は重ねてうなずいた。
『都督の気に入りの巫女を、連れて逃げました』
それを聞いた周瑜は、辺りもはばからず叫んでいた。
「桂仙・・・いや壱与!壱与ーーっ!」
意識を失うとき、最後まで残るのは聴覚だという。壱与は遠くで、とてもとても遠くで、確かに周瑜の声を聞いていた。自分を初めて桂仙ではなく壱与と呼んだ、その声を・・・