華麗にキメたい吾輩
吾輩は鯉である。
ただの鯉ではない。
流れに逆らうことを面倒がらず、浅瀬の小石ごときに進路を譲らず、何もないときでも何かあるような顔をして泳ぐ程度には、見どころのある鯉である。
川上には滝がある。
白く、冷たく、やたら偉そうに落ちつづける水の塊である。
あれは気に入らぬ。
別に、毎日あそこを見上げては、いつか華麗に登ってやろうと考えていたからではない。
まして、水しぶきを背に堂々と跳ねる己の姿を想像して、ひそかに惚れ惚れしていたわけでもない。
ただ、少し気に入らぬだけである。
ところが、その滝を見て妙なことを言い出した者がいる。
近ごろ川辺へ来る、あの娘である。
娘は、たいして遠慮というものを知らぬ。
岸にしゃがみこむなり、こちらを見つけて嬉しそうに手を振る。
「いたぁ」
いたぁ、ではない。
吾輩は野良猫ではないし、待ち合わせの相手でもない。川にいる鯉が川にいて何がそんなに嬉しいのか、こちらとしてはよく分からぬ。
だが、娘はいつもそうだった。
吾輩を見ると、なんだかちょっと得をしたような顔をする。
「きみ、今日もきれいだねえ」
困るのである。
こういうことを平気で言う者は困る。
石を投げる子供なら避ければよい。網を持つ者なら逃げればよい。だが、無邪気に褒めてくる相手には、どうしていいか分からぬ。
吾輩はとりあえず、尾をひと振りしてみせた。
静かな水音が上がる。なかなか上品な挨拶であったと思う。
娘は目を丸くした。
「ほらやっぱり、きみってちょっと特別なんだ」
特別。
なかなかよい言葉である。
もちろん、吾輩はそんな安いおだてに乗るような鯉ではない。
ないのだが、耳に悪くはない。むしろかなりよい。
娘はその日、滝のほうを見た。
それから、まるで明日の天気でも言うような調子で、こう言った。
「あそこも行けるんでしょう。きみなら」
吾輩は何でもないふうを装った。
装ったが、内心では少し忙しかった。
行けるでしょう。
きみなら。
その二つの言葉が、川の中でいつまでも尾びれに絡んだ。
実に軽率である。
根拠もなく、責任もなく、できると決めてかかるあの感じ。まことに無責任で、はなはだ迷惑で、たいそう心地よい。
翌朝、吾輩は滝壺にいた。
先に言っておくが、これは娘に乗せられたからではない。
断じて違う。
吾輩は以前から滝に対してそれなりの考えを持っていたし、いずれはけじめをつけるつもりでいた。たまたま、その時機が今だったにすぎぬ。たまたま前日に、きみなら行けるなどと言われただけである。
たまたま、である。
滝は下から見ると、予想以上に腹立たしかった。
高い。白い。冷たい。
しかも、こちらの覚悟など知らぬ顔で落ちてくる。
なんとも無粋である。
吾輩は流れの中で姿勢を整えた。
尾に力をためる。
ここはひとつ、軽く見せねばならぬ。必死に見えては台無しである。あくまで、気が向いたので少し跳ねてみた、くらいの顔で決めるのが肝要だ。
娘が見ていなかったのは残念だが、まあよい。
まずは予行である。
本番はそのあとでも遅くない。
吾輩は跳ねた。
そして、落ちた。
実に速やかに落ちた。
もう少し何とかならなかったのかと思うほど、きれいに押し返された。
滝というものは、こちらの見せ場を待つ気がまるでないらしい。
遺憾である。
だが、一度目は数に入らぬ。
これは様子見だ。
地形と水勢の確認である。今の失敗を失敗と思うのは素人だけであって、吾輩のように少し先を見る鯉にとっては、むしろ必要な一手と言ってよい。
「わあ」
背後から声がした。
吾輩は、できれば振り返りたくなかった。
だが振り返らぬのも不自然なので、なるべく平然とした顔で水面に向き直った。
岸辺に、娘がいた。
案の定、きらきらした目でこちらを見ている。
「ほんとにやるんだ」
ほんとにやるんだ、ではない。
やるとも。
もとよりそのつもりであった。むしろ今さら何を言うのか。
そういう顔をしてみせたつもりだったが、娘は勝手にうなずいた。
「やっぱり、きみってかっこいいねえ」
困るのである。
まだ何も成し遂げていない。
たった今、たいそう無様に落ちたばかりである。ここでかっこいいなどと言われてしまうと、次はもっとましに跳ばねばならぬ気になるではないか。
娘はさらに続けた。
「だって、ほんとに行こうとするんだもん」
その言い方は卑怯である。
結果ではなく、やろうとしたこと自体を褒めるのは卑怯だ。そんなもの、こちらの意地に火がつくに決まっている。
吾輩は滝へ向き直った。
今度こそ少しは見せねばならぬ。せめて、さっきより高く。できれば、あの娘が思わず声をのむくらいには。
「がんばってえ」
気楽に言う。
実に気楽に言う。
吾輩は跳ねた。
さっきよりは高かった。
少なくとも自分ではそう思う。尾の使い方も悪くない。角度も少しは洗練されていた。飛沫のまとい方にも、ほんのわずかだが華があった。
次の瞬間、やはり落ちた。
しかも今度は、前より見事に落ちた気がする。
勢いがついていたぶん、失敗までよく目立った可能性がある。
これはまずい。
そう思って水面からそろそろ顔を出すと、娘はぱちぱちと手を叩いていた。
「すごぉい」
何がであろう。
「今の、いちばんかっこよかったよ」
いちばん。
そのような比較までつけられると、なお困る。
吾輩は知っている。
今のは成功ではない。
華麗だったかと問われれば、答えはかなり怪しい。
なのに、娘は少しも疑わず、まっすぐこちらを見ている。
こうなると、引けぬ。
もうやめておくのが賢い。
今日はここまでにして、次は水量の少ない日を狙うべきである。岩の位置も見えたし、収穫はあった。理屈の上では、ここで退くのが正しい。
しかし、娘は言うのである。
「もう一回見たいなあ」
もう一回。
言うのは簡単である。
言われるほうの身にもなってほしい。
だが、その声には妙な期待があった。
吾輩ならやる。吾輩ならもう少し高く行ける。そういう、なんの保証もない信頼があった。
まったく、困るのである。
お世辞にも、おだてにも、そうそう動じぬつもりでいた。
吾輩はもっと孤高で、もっと冷静で、もっと大物のはずであった。
それがどうだ。きれいだの、特別だの、かっこいいだのと軽く言われるたびに、その気になって尾びれを振っている。
情けない。
だが、ほんの少しだけ、悪くない。
吾輩は深く水をくぐった。
流れの底で向きを決める。
尾に力を集める。
ここで退けば、利口ではある。
だが、利口なだけでは足りぬ日もある。
少しくらい無様でもいい。
どうせさっきから十分に無様だ。
それでも、あいつの前でだけは、もう少しましに見えていたい。
吾輩は跳ねた。
結果を言えば、やはり登れなかった。
ただ、先ほどまでより、ほんの少しだけ高く行けた気がする。
娘が息をのんだようにも思う。
それが本当かどうかは分からぬ。分からぬが、着水のあとで聞こえた声は、たしかに弾んでいた。
「ほら、やっぱりきみって特別なんだ」
そのひとことで、尾の痛みが少しだけ遠のいた。
まことに安い鯉である。
われながら、どうかと思う。
だが、どれだけ無様を晒そうと、あいつの前では華麗にキメたいのだ。
これは吾輩にとって、とても大事なことである。




