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華麗にキメたい吾輩

掲載日:2026/10/19

 吾輩は鯉である。


 ただの鯉ではない。

 流れに逆らうことを面倒がらず、浅瀬の小石ごときに進路を譲らず、何もないときでも何かあるような顔をして泳ぐ程度には、見どころのある鯉である。


 川上には滝がある。

 白く、冷たく、やたら偉そうに落ちつづける水の塊である。


 あれは気に入らぬ。


 別に、毎日あそこを見上げては、いつか華麗に登ってやろうと考えていたからではない。

 まして、水しぶきを背に堂々と跳ねる己の姿を想像して、ひそかに惚れ惚れしていたわけでもない。


 ただ、少し気に入らぬだけである。


 ところが、その滝を見て妙なことを言い出した者がいる。

 近ごろ川辺へ来る、あの娘である。


 娘は、たいして遠慮というものを知らぬ。

 岸にしゃがみこむなり、こちらを見つけて嬉しそうに手を振る。


「いたぁ」


 いたぁ、ではない。

 吾輩は野良猫ではないし、待ち合わせの相手でもない。川にいる鯉が川にいて何がそんなに嬉しいのか、こちらとしてはよく分からぬ。


 だが、娘はいつもそうだった。

 吾輩を見ると、なんだかちょっと得をしたような顔をする。


「きみ、今日もきれいだねえ」


 困るのである。


 こういうことを平気で言う者は困る。

 石を投げる子供なら避ければよい。網を持つ者なら逃げればよい。だが、無邪気に褒めてくる相手には、どうしていいか分からぬ。


 吾輩はとりあえず、尾をひと振りしてみせた。

 静かな水音が上がる。なかなか上品な挨拶であったと思う。


 娘は目を丸くした。


「ほらやっぱり、きみってちょっと特別なんだ」


 特別。

 なかなかよい言葉である。


 もちろん、吾輩はそんな安いおだてに乗るような鯉ではない。

 ないのだが、耳に悪くはない。むしろかなりよい。


 娘はその日、滝のほうを見た。

 それから、まるで明日の天気でも言うような調子で、こう言った。


「あそこも行けるんでしょう。きみなら」


 吾輩は何でもないふうを装った。

 装ったが、内心では少し忙しかった。


 行けるでしょう。

 きみなら。


 その二つの言葉が、川の中でいつまでも尾びれに絡んだ。


 実に軽率である。

 根拠もなく、責任もなく、できると決めてかかるあの感じ。まことに無責任で、はなはだ迷惑で、たいそう心地よい。


 翌朝、吾輩は滝壺にいた。


 先に言っておくが、これは娘に乗せられたからではない。

 断じて違う。

 吾輩は以前から滝に対してそれなりの考えを持っていたし、いずれはけじめをつけるつもりでいた。たまたま、その時機が今だったにすぎぬ。たまたま前日に、きみなら行けるなどと言われただけである。


 たまたま、である。


 滝は下から見ると、予想以上に腹立たしかった。

 高い。白い。冷たい。

 しかも、こちらの覚悟など知らぬ顔で落ちてくる。


 なんとも無粋である。


 吾輩は流れの中で姿勢を整えた。

 尾に力をためる。

 ここはひとつ、軽く見せねばならぬ。必死に見えては台無しである。あくまで、気が向いたので少し跳ねてみた、くらいの顔で決めるのが肝要だ。


 娘が見ていなかったのは残念だが、まあよい。

 まずは予行である。

 本番はそのあとでも遅くない。


 吾輩は跳ねた。


 そして、落ちた。


 実に速やかに落ちた。


 もう少し何とかならなかったのかと思うほど、きれいに押し返された。

 滝というものは、こちらの見せ場を待つ気がまるでないらしい。


 遺憾である。


 だが、一度目は数に入らぬ。

 これは様子見だ。

 地形と水勢の確認である。今の失敗を失敗と思うのは素人だけであって、吾輩のように少し先を見る鯉にとっては、むしろ必要な一手と言ってよい。


「わあ」


 背後から声がした。


 吾輩は、できれば振り返りたくなかった。

 だが振り返らぬのも不自然なので、なるべく平然とした顔で水面に向き直った。


 岸辺に、娘がいた。

 案の定、きらきらした目でこちらを見ている。


「ほんとにやるんだ」


 ほんとにやるんだ、ではない。

 やるとも。

 もとよりそのつもりであった。むしろ今さら何を言うのか。


 そういう顔をしてみせたつもりだったが、娘は勝手にうなずいた。


「やっぱり、きみってかっこいいねえ」


 困るのである。


 まだ何も成し遂げていない。

 たった今、たいそう無様に落ちたばかりである。ここでかっこいいなどと言われてしまうと、次はもっとましに跳ばねばならぬ気になるではないか。


 娘はさらに続けた。


「だって、ほんとに行こうとするんだもん」


 その言い方は卑怯である。

 結果ではなく、やろうとしたこと自体を褒めるのは卑怯だ。そんなもの、こちらの意地に火がつくに決まっている。


 吾輩は滝へ向き直った。

 今度こそ少しは見せねばならぬ。せめて、さっきより高く。できれば、あの娘が思わず声をのむくらいには。


「がんばってえ」


 気楽に言う。

 実に気楽に言う。


 吾輩は跳ねた。


 さっきよりは高かった。

 少なくとも自分ではそう思う。尾の使い方も悪くない。角度も少しは洗練されていた。飛沫のまとい方にも、ほんのわずかだが華があった。


 次の瞬間、やはり落ちた。


 しかも今度は、前より見事に落ちた気がする。

 勢いがついていたぶん、失敗までよく目立った可能性がある。


 これはまずい。


 そう思って水面からそろそろ顔を出すと、娘はぱちぱちと手を叩いていた。


「すごぉい」


 何がであろう。


「今の、いちばんかっこよかったよ」


 いちばん。

 そのような比較までつけられると、なお困る。


 吾輩は知っている。

 今のは成功ではない。

 華麗だったかと問われれば、答えはかなり怪しい。

 なのに、娘は少しも疑わず、まっすぐこちらを見ている。


 こうなると、引けぬ。


 もうやめておくのが賢い。

 今日はここまでにして、次は水量の少ない日を狙うべきである。岩の位置も見えたし、収穫はあった。理屈の上では、ここで退くのが正しい。


 しかし、娘は言うのである。


「もう一回見たいなあ」


 もう一回。

 言うのは簡単である。

 言われるほうの身にもなってほしい。


 だが、その声には妙な期待があった。

 吾輩ならやる。吾輩ならもう少し高く行ける。そういう、なんの保証もない信頼があった。


 まったく、困るのである。


 お世辞にも、おだてにも、そうそう動じぬつもりでいた。

 吾輩はもっと孤高で、もっと冷静で、もっと大物のはずであった。

 それがどうだ。きれいだの、特別だの、かっこいいだのと軽く言われるたびに、その気になって尾びれを振っている。


 情けない。


 だが、ほんの少しだけ、悪くない。


 吾輩は深く水をくぐった。

 流れの底で向きを決める。

 尾に力を集める。


 ここで退けば、利口ではある。

 だが、利口なだけでは足りぬ日もある。


 少しくらい無様でもいい。

 どうせさっきから十分に無様だ。

 それでも、あいつの前でだけは、もう少しましに見えていたい。


 吾輩は跳ねた。


 結果を言えば、やはり登れなかった。


 ただ、先ほどまでより、ほんの少しだけ高く行けた気がする。

 娘が息をのんだようにも思う。

 それが本当かどうかは分からぬ。分からぬが、着水のあとで聞こえた声は、たしかに弾んでいた。


「ほら、やっぱりきみって特別なんだ」


 そのひとことで、尾の痛みが少しだけ遠のいた。

 まことに安い鯉である。

 われながら、どうかと思う。


 だが、どれだけ無様を晒そうと、あいつの前では華麗にキメたいのだ。

 これは吾輩にとって、とても大事なことである。

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