虐げられた令嬢の幸せな人生への第一歩
数ある中からこのお話を選んでいただきありがとうございます!
灰色の煙が目に染みる。
セリーヌは簡素なワンピースに煤汚れがつくのも気にしていられなかった。
人々の沸き立つ不安は声となって押し寄せる。
「どこにいるの?」「今、見つけるからな!」「助けて、ここよ!」
心細い声を上げながら、人々は自分の家族を探している。
彼らと反対のことをしているのは自分くらいだろう。
ここは城下町だった。
石造りである城と城壁とは違い木造の建物が目立つ。
城の方は燃えていなかった。
なぜ知っているかというと、セリーヌは城から来たから。
ぱちぱちと今も燃え続ける民家を大きく避けながらセリーヌは走っていた。
セリーヌは時折、後ろを振り返り誰かを探している。
すると風に乗ってきた煙を直接吸い込んでしまい、激しくむせた。
燃えていない家の近くに移り呼吸を整える。
(見つかったらどうしよう⋯⋯)
セリーヌの脳裏には悪夢が広がる。
鼻が曲がりそうなほど強い香水は、摘んだ花を一ヶ月ほど放置したようにつんとくる臭いだった。
地肌に合わない白すぎる白粉。
それと対比するような鮮血を思わせる赤色の唇はいつも歪んでいる。
彼女独特な嘲笑顔だった。
その顔のまま死んだ母のことを悪く言い、こちらが反応すると叩いてきた。
態度が気に食わない、と。
セリーヌは思い出すだけでも、胸がざわついた。
セリーヌは頼る当てもない。
お金もない。
それでもあの家にいるよりはましだ。
この城下町の火事はセリーヌの背中を強く押した。
逃げろ、と。
炎で熱された空気は生温かくセリーヌの肌を撫でていく。
それでも悪寒がするのは止められない。
誰かが追いかけてこないか気が気じゃなかった。
例えば、継母のお気に入りの山みたいな大男とか。
その時、背中に少し温もりを感じた。
火の手がもう回ってきたのかと、距離を取った。
それが炎の熱ではなく、人だと疑念が頭をよぎる。
頭の中で痺れるほどの警鐘が鳴る。
(逃げなくては⋯⋯)
すると腕に何かが絡みついてきた。
温かい、それは紛れもない人の温かさ。
セリーヌの腕を覆うそれが、ようやく大きな指だと分かる。
「⋯⋯ひっ!!」
セリーヌに大きな声は出せなかった。
煙を吸い込んだ肺は軋み、喉からはひゅーひゅーと通り過ぎていく頼りない息しか漏れなかった。
全身が粟立つ。
掴まれた腕に見える大きな手は男性の手だとセリーヌは確信した。
(これは継母のお気に入りの大男の手)
手が震え始め、セリーヌは顔を殴られる恐怖から目を瞑った。
(どんな言い訳をしたら、許されるのかしら⋯⋯でも、考えている時間はないわよね。ここは単純に謝るのを繰り返すしかないわ)
「ご、ごめんなさい許してください。私が勝手に家を出てしまってごめんなさい」
セリーヌの頼りない喉から出る声は揺らいでいる。
こうして腕を掴まれた後は、いつも大男から平手打ちをされる。赤く腫れ上がるが数時間後には引いてしまうのだ。
それでも大きな手が自分に迫ってきて、肌を打つ大きな音で、押し寄せるのは恐怖でしかない。
ひゅっひゅっとセリーヌの息が浅くなる。
「こんな腕の細い少女がどんな生活をしてきたらそんなことを言うのだ」
濁りのない声は、継母のお気に入りの大男とは違った。
深みのある静かな声。
それは大海のように穏やかだった。
セリーヌは耳から入ったその声を頭で判断するのに時間がかかった。
三呼吸ほどするとようやく心が落ち着いてくる。
違う男性の声だと分かった。
セリーヌはゆっくりまぶたを引き剥がして目を開けていく。
淡い灰色の瞳がこちらを向く。
眩く光る髪は、炎を映してオレンジにも銀色にも見えた。
その姿を呆然と見ていると、彼は口を開いた。
「名は何という?」
彼の後ろから声が聞こえた。
彼は自然とセリーヌに覆い隠すように自分のローブを大きく見せた。
「そこの紳士殿、これくらいの小さな女の子を見かけなかったでしょうか?」
聞き覚えのある濁った声。
ザラザラと耳の奥に残るその声を聞くと反射的に身体が震えてしまう。
「名前はセリーヌと言うんですが──」
大男の声に大きく身体を震わせたセリーヌは紳士殿と呼ばれた男性のローブに必死で隠れている。
「見ましたよ。二ブロック先の肉屋辺りで。でも門の方に走っていたので今もいるかは分かりません」
「そうですか。ありがとうございます」
大きな足音は次第に小さくなった。
セリーヌの息が整うまで静かに待つ紳士殿。
「もしかして君の名前はセリーヌかな?」
セリーヌは、継母の実の娘の名前だった。
早くに亡くなってしまった娘の名前で彼女を呼んでいたのだ。
まるで彼女の名前なんて、どうでもいいと言うように。
それでも継母が愛おしくセリーヌと呼んだのは初めの頃だけだった。
次第に『あんたは、セリーヌと違って、出来損ないね』と扇を投げつけられることが増えた。
この火事の日、セリーヌの名前と共にこの記憶を捨てようと彼女は決意した。
「アメリアと申しますの」
アメリアの身体は勝手に動いた。なぜか身体に染み付いたカーテシーをした。
これが義父との出会いだった。
* * *
正確には法律上の義父ではない。
養子縁組をしていないのだ。
だがしばらくするとアメリアは彼のことを「お父様」と呼び始めたし、アメリアの中では父だった。
そんな義父はアメリアを自分の屋敷へと連れ帰った。
森の隣にある大きな御屋敷の一室はアメリアの部屋として、可愛らしいリボンや花の細やかな刺繍が舞う上等な部屋に住むことになった。
誰かに命令されず、ご飯が口に出来るだけで身体がじんわりと温かくなった。
その上、綺麗で温かいお湯で体を洗ってもよいと言われた。
侍女がやってきて、アメリアの体を拭こうとする。
「や、やめて」
反射的に腕を前にして身を守ろうとするアメリア。
骨張った背中に残る痣をじっと見て、侍女は蒼白になった。
侍女の表情を見たアメリアは、いつも継母や継母のお気に入りの大男に叩かれていたことを思い出す。
もしかするとアメリアはいつもそんな顔をしていたのかもしれないと思った。
アメリアは感じたことを侍女に素直に伝える。
「あの、私の体は汚れているので、あなたの手も汚してしまいます⋯⋯」
侍女の思惑は違うところにあったようで、硬くなった肩から力を抜くと、アメリアに微笑んだ。
「そんなことならお気になさらないでください。旦那様は娘が欲しいとずっと仰っておりました。こんなに可愛らしい女の子がいらしてくださって、皆喜んでおりますよ。きっと、リカルド様もそう思われるはずです」
「リカルド様⋯⋯?」
侍女の言ったことの半分は本当なのかもしれないと、思った。
実際に滑らかな動きでアメリアの体を丁寧に拭くと、着替えのシュミーズのような簡素なワンピースを侍女が持ってきた。
火事から逃げてきたワンピースなんかよりもずっとよさそうなものだった。
服に腕を通すとずっと撫でていたいほど滑らかで柔らかい生地に驚いた。
その後ベッドに潜り込んだが、その後の記憶はなかった。
目が覚めると辺りはすっかり明るくなっていた。
そして小さな瞳が部屋の外からこちらを向いている。
「あ、起きた。アメリアは何が好き? パンケーキ? それともジャムたっぷりのトースト?」
それからアメリアは慌てて支度をすると、「早く来い。いや、女の子には優しくしなくちゃいけないと父さまが言ってたな」とちぐはぐな答え。彼は義理の兄となるリカルドだった。
好奇心旺盛でなんでも首を突っ込んでいくタイプで、侍女が“やんちゃが過ぎる”と言っているのを聞いたことがある。
たまに家庭教師の授業をすっぽかしていくので、侍女が手を焼いている。
アメリアの一つ上だが、リカルドは年相応に見えない。
この前もリカルドの侍女から、『アメリアお嬢様はちゃんと十一歳に見えますが、坊ちゃまは五歳児のようですね』と言われていた。
「アメリアは冗談が上手いな。うっしっしっ」
「てやんでい、やってられるか」
リカルドはアメリアに合わせようとしているのか、自分が知っている汚い言葉を披露したいのか、市井の言葉を使ってくる。
いや、市井でもそんな言葉は使わないことも多いが、たまに流暢な市井の言葉を使ってくるのでアメリアは驚いた。
アメリアも自分の居た屋敷の中でさえ市井の言葉を聞いていたので、慣れていた。
継母のお気に入りの大男は、口が悪かったから。
義父は忙しいようであまり会わなかったが、日曜日には決まって晩餐が開かれた。
義父はアメリアに好きな食べ物と食べたいものを聞いたが、椅子に座って落ち着いて綺麗なカトラリーで丁寧に盛り付けられた食事というだけで嬉しかった。
ここでは表情を顔に出してもいいことが分かり、安堵の息を大きくついたのだった。
義父はアメリアに多くのことを強要しなかった。家庭教師をつけるとも提案しなかったし、淑女マナーもつけるようには言われなかった。
それでもアメリアはリカルドの後ろについていき、家庭教師の授業を一緒に受けた。
そのことを聞いた義父は食事の手を留め、アメリアの方を見たまま固まっていた。
義父が目をもっと大きく見開いたのは、リカルドもアメリアに負けじと勉強していると執事から報告を聞いたときだった。
「お父様、僕はアメリアには負けませんよ。だって僕には何でもできてしまいますからね」
リカルドは義父の前では絶対に市井の言葉は使わなかった。
市井の言葉は一時の息抜きのようなものなのだろうと、アメリアはぼんやりと思った。
アメリアはリカルドといる時間が多くなったが、時々喧嘩もした。
アメリアに難癖をつけたリカルドが口喧嘩でアメリアに負ける。そして負け惜しみに森に逃げるのがだいたいだった。
空が茜色に色づき始めると、リカルドは唇を噛みながら重い足取りで戻ってくるのだ。
だが、その日は違った。
リカルドが森へ走り去ってから半刻も経たずして、雨が降り始めた。
居ても立ってもいられないアメリアはリカルドのローブを抱えて、ローブ姿で森の中へと入った。
大声でリカルドの名前を呼びながら、見渡すアメリア。雨の音ですぐにアメリアの声は掻き消される。
空から樹木の葉に当たる雨の音。
雨粒が葉の上を滑っていく。
地面の落ち葉や草にも当たり何重にも音が重なっていく。
雨脚が強くなってくると、濡れた土の匂いがそこら中でし始める。
雨で視界が悪くなり十歩先は霞んで見えた。
フードにも、ぽつぽつと雨粒の音がする。
この時、アメリアは、この屋敷に来て初めて孤独を感じた。
ここには誰もいない。
アメリアの周りには、動物の気配さえもない。
継母の家にいたときには、一人になることを切望していた。
あの火事の日もそうだった。
「兄さん」
それなのに、今はリカルドのローブを握りしめて立ち竦んでいる。
何度も周りを見渡して、リカルドを呼ぶ。
アメリアの震える足はうまく動かなかった。それでも、足を叩いて無理やり前へ進ませる。
「兄さーん!」
森の中で雨が降っているだけ。
そう言い聞かせてみるのに、見えない何かがまとわりついて苦しい。
アメリアの中で何かがせり上がってきて、リカルドとはもう二度と会えないのではないかと、心細くなる。
「兄さん、お願い出てきて⋯⋯兄さん!」
屋敷で最初に仲良くなったリカルドは、アメリアにとってとても気安い存在だった。
貴族とは思えない市井の言葉を掛け合う秘密の間柄だった。
いたずら同盟を組んだ兄妹のように。
「アメリア!」
沈んだ闇から引き上げてくれたあの時のように、孤独の海から救い出してくれる。
アメリアはリカルドとの喧嘩のことは、すっかり忘れていた。
「兄さん⋯⋯」
少年の小柄な腕がさらに小さなアメリアの肩を抱いた。
それはとても逞しい兄に見えた。
「アメリア、ごめんね。こんなに濡れて、僕を長いこと探してくれたんだね」
「兄さん⋯⋯怖かった」
アメリアは短くそう答えた。
この後、アメリアは熱を出してしまい、リカルドが侍女長にこってり絞られた。
今にも泣きそうな顔でアメリアに謝るリカルド。
彼の顔を見て、ベッドの上で力なく笑うアメリアはリカルドを手招きする。
「兄さん、寂しいから熱が引くまでここにいて」
「あぁ、ずっといるよ」
アメリアには今までで一番リカルドが大きな兄に見えた。
アメリアはその時ばかりは小さな子どもに戻って、頼りになる兄の手を握りしめた。
そして温かなリカルドの手に安心して、アメリアは寝息を立て始めた。
それがきっかけで、前よりも喧嘩が減った。お互い勉学を高め合い、苦手なところはお互い教え合うようになった。
それから少し時が経つと、家族でガーデンパーティーなど貴族交流に参加することが増えた。
アメリアは最近面白くなかった。
義父よりも深い黄金色のさらさらと風になびく髪。はっきりとした二重で優しそうな瞳に令嬢が映る度に、彼女たちは熱を上げた。
「面白くないわ」
アメリアの口からぽつりと零れる。
アメリアはティーカップに口を付けながら、仏頂面をした。
日に日に令嬢から特別な視線を向けられるリカルドは鈍感なようでどの視線も気が付かなかった。
アメリアが不満そうな顔をリカルドに向けると、リカルドは不本意な顔を返した。
「私は何もやっていないはずだが?」
「兄さんはそれでいいんだけど、よくないの」
「難解な問題だな」
「兄さんには一生解けない難問よ」
アメリア自身も自分の中に湧いてくる気持ちが何か分からなかった。
リカルドがアメリアに何かをしたわけではない。
それなのにリカルドが令嬢と話しているところを見ると、怒りが湧いてくるのだ。
「こっちを見てくれればいいのに」
アメリアは声に出してみる。
今だけは、兄妹じゃなければいいのにと何度も思った。
帰りの馬車の中でリカルドとアメリアは同じ馬車に乗っていた。
「さて、私はなんで怒っているのでしょうか?」
リカルドはアメリアの真似をしてくる。
「変な真似をしないでください」
それでもアメリアがちらりと、リカルドを見ると目が合った。もやもやが和らぐ。
「それにしてもアメリアは他の令息に人気があるんだな」
「へっ?」
アメリアにとっては初耳だった。今日だって、リカルドに熱を上げている令嬢たちを眺めていたし、誰にも声をかけられなかった。
「アメリアを変な目で見てくるやつが多いんだ。俺の威嚇が効いたみたいだけど」
(いつから兄さんは他のご令息方に威嚇なんてしていたのかしら)
リカルドは兄としてやってくれていることだと分かっているのに、頬を赤らめて見ている令嬢の気持ちが少し分かった気がした。
(家族だから、同じ馬車に乗れる⋯⋯約得よね)
馬車はゆっくりと左右に揺れながら、二人の住む屋敷に向かっていた。
* * *
(リカルドSide)
王立裁判所・法廷内──。
「これより、被告コルネリア・グランヴィルの審理を始める」
裁判官は淀みのない声で手に持った書類を読み上げ始めた。
被告席には、魔法手枷をつけた両手を力なく下ろし、乱れた髪を気にせず、肩を落として立つ継母・コルネリアの姿。
苛立ちを隠そうともせず、コルネリアは崩れた化粧のまま、辺りを睨み散らしている。
この場にアメリアはいなかった。
義父が「アメリアにとって心の負担が大きすぎる」と事前に裁判所へ申し出ていた。
アメリアの証言がなくてもいいようにある書類を提出していた。
義父が初めてアメリアに出会った火事の日、義父に保護されたアメリアはすぐに医師と女性助手が、アメリアの体を観察した。
その記録は綺麗に保存されており、今は裁判官の手元にある。
肌がどす黒く変色しているところや赤い腫れた部分などを見て、アメリアに誰に何をされたのかを聴き取って作られたものだった。
幼いアメリアは時折、言葉を切り、震えながら胸元を押さえ、込み上げる感情を抑えているようだった。その目は誰も見ておらず、過去の記憶を思い出しているようだった。目から流れ落ちる涙を見るだけで、説明は十分だった。
継母と継母の恋人の二人から日常的に行われていたものだった。
その虐待を見かねて止めに入った使用人も、アメリアと同じように身体的な罰を受けた。そのため辞職する使用人も多く、人の入れ替わりも多かった。
だが、使用人が辞める際に、『屋敷で起きたことの一切の出来事を他言することを禁ずる』との書類にサインしないと辞められなかった。使用人はそれにサインをして逃げるように屋敷を去った。
裁判官が読み上げる度に、傍聴席の貴族の顔が歪む。
それらは虐待の事実を決定づける証拠だった。
現王になってから家族内の虐待にも厳しい目が入り、今回の事件は一番劣悪とされた。
その中でもとりわけ怒った顔をしていたのはリカルドだった。義父とリカルドは傍聴席の最前列に座っていた。
これだけでも爵位の没収は確実だが、鞭打ちや強制労働といった追加の懲罰がつくだろうとリカルドは心の中で確信した。
だが、裁判官の話はまだ終わらない。
(もしかして他にも⋯⋯)
リカルドが父の顔を見ると、しっかりと頷いた。リカルドは目を大きくさせて、裁判官に視線を戻した。
「次に10年と三日前に起きた海難事故について、説明いたします」
新たな題目に傍聴席でひそひそとくぐもった声が膨らんでいく。
ラヴィエール海岸は、夏の避暑地として、あまり知られていない海岸だった。
王都から馬車で十三時間ほど離れているこの海岸にわざわざ出向く人は少ない。
観光地でもなければ主要な貿易都市でもないのだ。
そこでたまたま起きた大波に攫われてしまった。
「その際にご逝去されたのは、セリーヌ・グランヴィル様、ガスパル・グランヴィル様」
コルネリアの娘と夫。
「それに、アメリア・モンフォール様⋯⋯と言ってもモンフォール様のご遺体は見つかりませんでした」
異を唱えるように、傍聴席から声が上がる。そして眉を顰めて疑念を口にする者が次々と出てきた。
リカルドは無意識に立ち上がっていた。頭に血がのぼっていた。口を開いた瞬間に父の手が優しく二回肩を叩いたのだ。
「最後まで聞きなさい」
「⋯⋯はい」
リカルドは今までの人生で見たことのないほど父が怒りで静かに燃えていることに寒気がした。
リカルドは父の怒りを目の当たりにしたことによって、自分を客観的に見たように感じた。
そして息をゆっくり長く吐きながら、なんとか自分を落ち着けると、椅子に座り直した。
感情が高ぶって気づかなかったが、裁判官は確かに「アメリア・モンフォール様」と言った。
「モンフォール公爵家のご令嬢!?」
法廷がどよめいた。
新たに出てくる情報にリカルドは理解が追いつかない。
「目元近くのほくろも身体的特徴が酷似している。保護されている彼女がアメリア・モンフォール様であると判断されます。
当時の状況を使用人や屋敷を出入りする業者に聞き取り調査を行いました。よって導き出された答えはコルネリア氏のアメリア嬢の誘拐です」
今度は傍聴席も隠さず声を上げた。
驚嘆する声は波のように辺りを覆い尽くした。
「そんなこと、しておりません」
硬いコルネリアの声。
拒否の一点張りだった。
「被告人・ガレスは認めました。そして詳細を語ってくれました」
コルネリアは一人分離れたところに座るガレスに取ってかかろうと近づいたが、警備員に止められた。
ガレスは涼しい顔をしている。
「真実を話せば減刑が望める。コルネリアは浜辺に打ち上げられた息をしていない自分の娘と夫の近くで、咳をしながら意識が戻ったアメリアを連れて帰った。セリーヌの代わりにすると言っていた」
ガレスは話せば減刑になると信じ、コルネリアから聞いたことをペラペラと話し始める。
コルネリアは頭を激しく振った。
「ガスパルがいけないのよ。あんなとこに行きたがらなかったら、二人は死なずにすんだ。私はラヴィエール海岸に行くのは反対だったのよ!」
悲鳴に近いような耳障りな甲高い声が辺りに響く。
コルネリアの口が閉じるのを確認した裁判官はコルネリアの方を見た。
「それでは夫であるグランヴィル男爵・ガスパル様のせいであると仰っしゃりたいのですね。それでもアメリア嬢はセリーヌ嬢の代わりになりましたか?」
感情を抑えながらも裁判官から怒りは滲み出ていた。
「代わりなんてなるわけないじゃない! あんな出来損ない。私の可愛いセリーヌとはちっとも似ていなかったわ」
肩で荒い息をしているコルネリアは怒りで我を忘れていた。
「ではなぜ返そうとしなかったのですか?」
「返せるもんなら返したかったわよ。でもそしたら罪に問われるでしょう?」
リカルドは頭の中が怒りで真っ白になっていた。
(そんな自分の都合で、アメリアは苦しんでいたなんて、ふざけるなよ)
傍聴席ではほとんどの人が立ち上がり敵となったコルネリアを睨みつけていた。
そこで今回の判決を下す裁判長はリカルドの父・アルディス公爵を一瞥した後、モンフォール公爵を見た。
「誘拐と虐待をしたコルネリアとガレスの判決について、法定刑の範囲内で被害者側から量刑意見を求めます。今回はモンフォール公爵と長年アメリア嬢を保護していたアルディス公爵の両名にお聞きいたします」
二人はそれぞれ立ち上がり、裁判長の前へと移動して話を始めた。
アメリアを誘拐したコルネリアのいる男爵家は没落寸前。財産もなく、名声も地に落ちた。愛していたはずの男にあっさり裏切られてコルネリアの心はここにあらずといった雰囲気だった。
そしてコルネリアとガレスは、貴族令嬢誘拐および暴行について有罪とされた。刑の詳細は後日言い渡されることになった。
裁判長の言葉より後には誰も話をしないまま法廷を出た。
そしてリカルドも立ち上がると前へと進んでいった。
その日の夜に地下の牢屋に入れられたコルネリアとガレス。
嘆きながらも、自分の夫のせいにしても気持ちが収まらないコルネリアはガレスのせいにし始めた。
「あんたがあんな告げ口したせいで、私はどうなっちゃうんだろう。お前になんか会わなきゃ良かったよ」
手枷をつけたまま近づいてきたガレス。
「俺のほうがとばっちりさ。お前は顔も可愛くなけりゃ、心も不細工だな。なんで俺までこんな牢屋にぶち込められなきゃいけないんだ」
二人の醜い言い争いは夜が明けるまで続いた。
* * *
アメリアの周りでは急に色んなことが変わり始めた。記憶に靄がかかっていたのは、ラヴィエール海岸での海難事故より前の記憶だった。
まだ思い出せることは多くなかったが、本当の父と母に対面して、少しだけ話をした。
アメリアにとってあの火事の日までは思い出したくもない記憶だろうから、思い出話も無理にしようとはしなかったのだ。
そしてアメリアがモンフォール公爵家に帰ることが決まった。
リカルドにとって頭を金槌で殴られたくらいの衝撃だった。
アメリアと離れる。何度考えても実感がなかった。
いつまでも義父とリカルドと一緒にいると思っていた。
もちろんいつかは社交界に出て、誰かと縁談を結んでこの家を出ていくと、リカルドは頭の中では分かっていた。
それでも今じゃない。いや、今だとは思いたくなかった。
今、離れれば終わってしまう。
それでもアメリアに何も伝えられないまま、アメリアが帰る前日になってしまった。
その日の夜、リカルドは父の執務室に呼ばれた。
父は何を話すのだろうか。
これが最後になるからしっかりと挨拶をしておきなさい、とでも言うのだろうか。
父の部屋に入ったリカルドは真っ先に父の顔色をうかがった。
いつものような穏やかな顔のように見える。
「リカルド、アメリアがうちに来た時、開口一番になんて言ったか覚えているかい?」
リカルドはあの日のことを思い出してみる。思い当たることがあった。それでも、違うと思いたくて、ゆっくりと首を左右に振る。
「いえ」
「『僕のおよめさんが来たの?』」
「⋯⋯!?」
(お父様は俺の真似をしたのか? いやいや、なんでお父様は覚えているんだ。俺は自分で言ったから覚えているけどさ。そんな頭の中がお花畑みたいなこと忘れてくれればよかったのに⋯⋯)
リカルドの体感温度が上昇する。
顔を上気させながらリカルドは必死で言葉を探していた。
「私はその言葉を聞いた時、アメリアを養子にするのは少し様子を見ようと思った。そのままアメリアの本当の家族の捜索に話が進んでしまったがね」
リカルドも不思議で仕方がなかった。
なぜアメリアのことをこんなに温かく迎え入れた父が養子として正式に申請しなかったのだろうと。
でもその理由が、今、はっきり分かった。
父の手には大きなサファイアの付いた髪飾りがあった。
(あれはお母様の形見⋯⋯)
「これはリカルドの方が必要みたいだな、取っておきなさい」
父の大きな手がリカルドの手と重なる。
その間にあるのは母の形見、そして──。
リカルドは真っ直ぐ父を見た。
「お父様、ありがとうございます」
次の日、支度を終え、荷物を馬車に積み込み終わり、皆と別れを告げているアメリア。
父と対面すると、アメリアは言葉を探しているようだった。
「私の中ではお父様はお父様です。これからもそう、呼んでもよいでしょうか?」
「さすがにモンフォール公爵の立場もあるから、公式な場以外でお願いするよ。
私もアメリアは娘のように思っているよ。出会った時から、ずっと」
「お父様⋯⋯」
声をうわずらせながら頼りなく近づいて来たアメリアを父は優しく抱擁した。
その周りにいた誰もが喉を詰まらせながら、目を潤ませた。
そして最後にアメリアは誰かを探している。
リカルドが近づいていくと、アメリアと目が合った。
アメリアの花が咲いたような笑顔が見えた。
「兄さん、あの⋯⋯」
「アメリア、“兄さん”は終わりだ。でもいつまでも大切に思っているよ」
リカルドは父から受け取った髪飾りをアメリアに渡す。
「今はまだ、焦らない⋯⋯でも⋯⋯」
リカルドは続く言葉を見つけられないでいた。
「リカルド様、これをお渡しします」
華奢なアメリアの手から渡されたのは、羽根ペンだった。
「たくさん書く」
「へっ?」
「アメリアに文をたくさん書くから、そばにいなくても、必ず迎えに行くから」
リカルドは耳まで熱を感じていた。
今は隣にいることができなくても、必ず周りにも認められる関係になりたい。
リカルドはそう決意した。
少し涙ぐんだアメリアは、それでもリカルドへ微笑むように努めているように見えた。
アメリアが両手で大事そうに髪飾りを握りしめる姿を見ただけでも十分アメリアの答えだと感じていた。
* * *
アメリアのデビュタント当日──。
モンフォール家の屋敷前に馬車が止まった。
華やかなドレスには宝石が散りばめられている。それはサファイアばかりだった。
磨き上げられたアメリアの頭にはリカルドの母の形見の髪飾りが輝いている。
久しぶりに会ったアメリアと視線を交えると、とくんと心臓が鳴った。
するとリカルドの鼓動が速くなってきた。
馬車の中へとエスコートすると、リカルドとアメリアは向かい合わせで座った。
「久しぶりですね、兄さん。じゃなかった。リカルド様」
「今は二人だけだ。いつもの口ぶりにしようぜ。うっしっしっ」
アメリアと出会った当初、リカルドなりの背伸びした市井の言葉だった。
それを聞いたアメリアは愉快そうに笑いをこぼした。
向こうの家での暮らしを聞きたい気持ちもあったが、今は昔のような時間を過ごしたい。
その後も、リカルドとアメリアの昔話は絶えない。
いつの頃から、自分より小さい妹を守ろうという気持ちだけではなくなったのだろうか。
いつから他の男の目にアメリアを映したくないと思ったのだろうか。
いつからアメリアの隣に自分がいたいと強く思ったのだろうか。
「これからは兄さんではなく、リカルドとして君の隣にい続けたい」
「私もそう思って、ダンスの特訓をしましたわ」
馬車はデビュタントの会場の王城大広間に一番近い入口へと着いた。
リカルドが先に降りると、エスコートのためにリカルドはアメリアの方へ手を伸ばした。
リカルドは慈しむような目でアメリアを見る。気のせいかもしれないが、アメリアの瞳にも自分と同じ熱が宿っているように見えた。
リカルドの手にはアメリアの手がしっかりと握られていた。
それは小さな頃、雨の日に繋いだ時と違う。
正面扉が開くと、リカルドとアメリアは眩いばかりの光の粒に迎えられ、中へと入っていった。
令嬢には髪飾り、令息には羽根ペンを送り合うことがその後、流行したのはまた別のお話。うっしっしっ。
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