4、震える身体、守るべきもの
ヘルマンが天幕が林立する本部に到着したとき、剣戟の音が聞こえた。何かある。ヘルマンは馬を降りずに、駆けていく。
「義姉上!」
半狂乱になっていた。義姉上に何かあったら、自分はもう……。混乱の正体は帝国軍の決死隊による夜襲だった。
シルビア一人が八人の帝国兵に囲まれている。いくら彼女が剣の名手だとは言え、これは無理だ。凛としたシルビアが、覚悟を決めている。剣を握り、孤独な影を背負って立ち尽くしている。
ヘルマンは躊躇することなく、馬を馳せ入れた。一人を馬蹄にかける。シルビアを馬上に引き上げ、自分は馬から降りた。馬の尻を叩いて、走らせる。
「ヘルマンー!」
去っていくシルビアの声が聞こえる。馬上に引き上げたシルビアの身体は思いのほか軽く、弱々しく震えていた。義姉も人間なんだ……。当たり前のことにようやく気付く。
「俺が彼女を守らなきゃならないんだ」
七人を相手に時間を稼いでいる間に、俺の愛馬は、愛する人を安全な場所へ連れて行ってくれるだろう。
ヘルマンは、シルビアに教わった美しい刺突の型を捨てた。一人目をヴァルデトルーデに習った剣術で瞬時に切り伏せる。なんとしてもシルビアを逃がさなくては……。二人目は、足で雪を蹴り上げ、攪乱してから急所を突いた。これもヴァルデトルーデに教えてもらった戦い方だった。
だが三人目を相手している間に取り囲まれてしまった。
「ヘルマンー!」
グラツィアの声だった。ロサ騎士団の宿営地から俺のあとを追いかけてきたようだった。二人で残りの帝国兵を切り伏せた。
帝国軍の奇襲は失敗に終わった。ヘルマンは一緒に帝国兵を撃退した、グラツィアの震える手を強く握った。
すべてか片付いたあと、シルビアは執務室にヘルマンを呼び、お茶を出した。彼女の髪の甘い香りが彼の鼻孔をくすぐる。
「ヘルマンありがとう。あなたがいなければ私はきっと……。でもあんな危険な真似をしちゃだめよ」
シルビアは義弟に感謝したが、苦言を呈することも忘れなかった。
そんなシルビアを見るヘルマンの瞳には、かつての憧れではなく、守るべきものを定めた光があった。
シルビアは、その瞳に宿る感情に、自分でも情けなくなるほどの安堵を覚えた。彼に依存しているのは、自分の方だと、認めざるを得ない瞬間だった。
ヘルマンが扉を閉め、その足音が廊下に消える。シルビアはふう、と深く息を吐き、机に置いたナシアの匂い袋を指先で弄んだ。
「……いつまで、あの子を繭の中に閉じ込めておくつもりだい」
背後の闇からヴァルデトルーデが声をかけた。彼女は音もなく近づき、シルビアが淹れたままの、冷めた茶を勝手に飲み干す。
「繭だなんて、人聞きが悪いわ。私はあの子に、誇り高い騎士であってほしいだけよ」
「その誇りが、戦場じゃ命取りになるって言ってるんだ。あの子は今夜、俺が教えた汚い手で帝国兵を殺した。……あんたが教えた綺麗な舞踏じゃなく、泥を啜る俺たちのやり方でな」
ヴァルデトルーデの言葉に、シルビアの指が止まる。彼女はヴァルデトルーデを見上げ、亡命の旅路で失われた彼女の左目を、慈しむような、あるいは羨むような眼差しで見つめた。
「ヴァルデトルーデ。……私は貴女のようにはなれない。泥を被る覚悟も、片目を捨てる勇気もなかった。だから、せめてあの子だけは、私たちが捨ててきた光の中に置いておきたいの。それが私の、この戦いへのやりがいなのよ」
「敬意は払うよ、シルビア。あんたの軍才も、その完璧な聖女の仮面も。……だがな、片目になったからこそ見える真実もある。あの子を光の中に縛り付けるのは、教育じゃない。去勢だ」
ヴァルデトルーデは空になったカップを乱暴に置き、シルビアの肩に手を置いた。剥き出しの戦士の貌と、硝子細工のような名将の貌が至近距離で重なる。
「あんたは名将だよ。敵を殺すことに関しては右に出る者はいない。だが、身内を愛することに関しては、致命的に不器用だ。……あの子をこれ以上甘やかして、腑抜けにするつもりなら、次からは俺がもっと手酷く指導するよ」
「……あの子を守っているのは、私の方だと思っていたわ」
シルビアは自嘲気味に微笑み、ヴァルデトルーデのゴツゴツとした手を、自分の白い手でそっと包み返した。亡命者という、根無し草の孤独を共有する二人だけの、短い沈黙。
「でも、ありがとう。貴女が泥を被ってくれるから、私はこうして、誰にも言えない弱音を吐いていられるのね」




