2、藁の匂いと身代わりの熱
馬小屋では、グラツィアが鞍を磨いていた。
「また、あんな顔して戻ってきた」
グラツィアはヘルマンを見上げ、汚れた布を放り投げた。彼女は大公国の騎士たちにスパイ扱いされ、疎外され帝国の犬、と吐き捨てられたとき、ただ一人、彼女をかばったヘルマンを覚えている。おかげで彼女は自分の居場所を見つけることができた。
ヘルマンは何も言わず、グラツィアの隣に腰を下ろした。馬たちの視線が、高ぶった神経を少しだけ沈めてくれた。
外では雪が深さを増している。ヘルマンは、馬小屋の中でグラツィアを抱き寄せた。厚い外套越しに、グラツィアの心音が伝わる。ヘルマンの指先が、彼女の項に触れる。
「この感触、あの人の指先もこれくらい細いんだろうか」
そんな思考を振り払うように、ヘルマンはグラツィアの肩に強く顔を埋めた。どれだけ近づいてもお互いの熱が交換されることはなかった。
ヘルマンはシルビアに執着している自分をごまかすため、グラツィアと付き合っていた。
グラツィアは拒まない。彼女はヘルマンが自分の体に誰の影を求めているかを知っている。それでも、彼女はヘルマンの震えを止めるためだけに、その冷えた手を彼の背に回した。
ヘルマンは外套の襟を立て、グラツィアと別れて歩き出した。鼻腔にはまだ、彼女の髪に混じっていた馬小屋の藁と、鉄の錆びた匂いがこびりついている。
野営地の外れ、折れた倒木に腰を下ろし、一人で錫のフラスコを煽っている人影があった。左目の眼帯を月光に光らせ、ヴァルデトルーデが低い笑い声を漏らす。
「……いい月だ。死んだ仲間たちの目玉が空に浮いているような、嫌な色をしている」
ヘルマンは足を止めた。ヴァルデトルーデはヘルマンの方を見ようともせず、喉を鳴らして強い蒸留酒を飲み下した。
「団長。配置の確認ですか」
ヘルマンが事務的な声を出す。ヴァルデトルーデはそこでようやく、残った右目を細めてヘルマンをねめつけた。
「配置? そんなもんは、さっきのガキどもの交尾でかき乱されたよ」
ヴァルデトルーデは立ち上がり、雪を蹴散らしながら近づいてくる。彼女が通り過ぎる際、酒の強い匂いと、洗っても落ちない古びた血の匂いが鼻を突いた。彼女がフラスコをヘルマンに放った。
「飲めよ、ヘルマン」
コルクの栓を抜いて、一口飲む。強い、喉が焼けるようだ。ヘルマンは喉の痛みでせき込んだ。ヴァルデトルーデはそんな彼の様子を全く気に留めることなく話し始めた。
「勘違いするなよ、ヘルマン。私はお前たちの寝床を覗き見る趣味はない。だがな、帝国の亡命者が抱く愛ってのは、どうしたって血の味がするもんだ。……身代わりだろうが、当てつけだろうが、死に損ない同士が泥の中で貪り合うのは、見ていて反吐が出るほど美しい」
彼女はヘルマンの肩に、ゴツゴツとした硬い手を置いた。
「お前が抱いているのは、お前の腕の下で震えていた女か? それとも、要塞のバルコニーで指先ひとつ汚さずに星を見ている、聖女様か?」
ヘルマンの喉が鳴った。ヴァルデトルーデは、彼の動揺を愉しむように眼帯の奥の皺を深くした。
「まあ、好きにしろ。どうせ近いうちに、この雪が真っ赤に染まって、お前たちの愛だの執着だのといった寝言は、全部氷の下に沈むんでるかもしれないんだ。せいぜい、今のうちにたっぷり楽しんでおけ。後悔しないようにな」
ヴァルデトルーデはヘルマンから奪い返したフラスコを再びあおり、闇の中へと消えていった。残されたヘルマンには、先ほどまでの熱を奪い去るような、痛烈な沈黙だけが雪のように降り積もっていった。




