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第九章 霧の向こう側

 ロンドンは、何事もなかったかのように朝を迎えた。

 新聞は女王の追号と、南アフリカの戦況と、いつもの犯罪記事を並べている。

 イーストエンドの裏通りで、小さなパブが一軒焼け落ちたことなど、紙面の隅にも載らなかった。


 だが、霧の下では違った。


 噂は、いつも火より早い。


 ――東洋人が死んだ。

 ――いや、捕まった。

 ――違う、消えた。

 ――銃弾を受けても、笑っていたらしい。

 ――音を鳴らす武器を持っていた。

 ――あれは人間じゃない。


 話は形を変え、尾ひれを増やしながら、波止場から工場へ、酒場から地下室へと流れていく。

 名前は、もう正確に伝わらない。


 タカスギ。

 シンサク。

 サクラノオトコ。


 だが、一つだけ共通していた。


 ――退屈な世界に、穴を開けた男。


     *


 ヘイスティングス警視は、スコットランドヤードの自室で、報告書を前に沈黙していた。

 机上の書類は、整いすぎている。


 死亡者数、ゼロ。

 逮捕者数、数名。

 重要参考人、高杉晋作――消息不明。


 「不明」という言葉が、彼は嫌いだった。

 科学でも、法でも、説明できない隙間を示す言葉だ。


「逃亡、ではないのか」

 彼は部下に尋ねた。


「確認できません。地下通路の一部が、崩落しており……遺体も、痕跡も」


 ヘイスティングスは、頷いた。


 あの場で、高杉は“捕まえさせなかった”。

 それだけは、確かだった。


 机の引き出しから、例の紙片を取り出す。

 東洋の文字。


 ――おもしろき こともなき世を おもしろく。


 意味は、まだ調べていない。

 調べれば、理解してしまう気がした。


     *


 テムズ川の下流。

 潮と煤が混じる岸辺で、一人の男が咳き込んでいた。


 吐き出された血が、霧に滲む。


「……まったく、英国の空気は身体に悪い」


 高杉晋作は、濡れた石に腰を下ろし、荒い息を整える。

 コートは捨てた。

 赤布もない。


 今の彼は、ただの痩せた異邦人だ。


 頭の中には、あの少年の顔が焼きついて離れない。

 音を鳴らせたか、と聞いた声。


「鳴ったさ……派手にな」


 誰に言うでもなく、呟く。


 彼は負けた。

 だが、壊れなかった。


 それが、何より厄介だった。


「奇兵、か……」


 日本で作ったそれは、軍隊ではなかった。

 思想だった。


 そして思想は、斬れない。


 高杉は、川面に映る歪んだ自分の顔を見つめる。

 結核に侵された身体。

 いつ終わってもおかしくない命。


「だからこそ、だな」


 彼は立ち上がる。


「長生きする気はない。

 だが――退屈させる気も、さらさらない」


     *


 同じ頃、ロンドン各地で、奇妙な動きが始まっていた。


 工場の壁に、意味不明な印。

 夜明け前、橋の下に置かれる桜の枝。

 酒場で、誰かが口ずさむ、不器用な三味線の節。


 それは、指令ではない。

 組織的でもない。


 だが確かに、繋がっていた。


 オコナーは、別の名を名乗り、別の街へ渡った。

 ラマヌジャンは、姿を消し、数式だけを残した。

 浮浪児たちは、路地に戻ったが、目だけが変わった。


 彼らはもう、

 世界を「仕方ないもの」としては見ていない。


     *


 霧が再び、ロンドンを覆う。


 その向こうで、

 大英帝国という巨大な機械が、わずかに軋んだ。


 誰にも気づかれないほど、小さな音で。


 だが――

 その歯車に挟まったのは、

 一人の革命家の、燃え残りの魂だった。

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