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第八章 桜花、散る

 夜明け前の霧は、音を奪う。

 足音も、呼吸も、悲鳴さえも。


 それでも、パブ「チェリー・ブロッサム」は気づいていた。

 “番犬”が来たことを。


 最初に消えたのは、灯りだった。

 表の通りのガス灯が、一つ、また一つと落とされる。

 闇が、規則正しく広がっていく。


「……始まったな」


 高杉晋作は、地下の柱にもたれ、静かに言った。

 逃げ道は三つ。

 全て把握している。


 だが、逃げる気はなかった。


「合図を」

 彼は少年に言った。


 少年は、震える手で撥を握る。

 弦に触れ――


 ――ペン。


 短い音。

 それが、最後の合図になるとは、誰も知らなかった。


 扉が破られる。

 正確で、無駄のない動き。


「警視庁だ! 動くな!」


 命令は、感情を含まない。

 それが、恐ろしい。


 奇兵たちは散った。

 命令ではない。

 訓練でもない。


 ただ、隣にいた者が走ったから、走った。


 地下に煙が流れ込む。

 催涙ガスだ。


「くそっ……!」

 オコナーが咳き込みながら、爆薬袋を抱える。


「使うな」

 高杉が言った。

「今日は、負ける日だ」


 その言葉が、誰よりも重かった。


 警官たちは、迷わない。

 捕まえる者。

 逃がす者。


 役割分担が、完璧だった。


 少年が、転ぶ。


 高杉は、咄嗟に手を伸ばした。

 その瞬間――


 銃声。


 短く、乾いた音。


 少年の身体が、軽く跳ねる。


「……っ!」


 時間が、止まる。


 高杉は、少年を抱き上げる。

 血が、指の隙間から溢れた。


「……音、出せた?」

 少年が、かすれた声で聞く。


「上出来だ」

 高杉は、笑った。

 喉の奥が、焼ける。


 少年は、それで満足したように、目を閉じた。


 高杉は、ゆっくりと立ち上がる。


 警官たちが、銃を向ける。

 距離、角度、数。


 全て、死に足る。


「動くな!」

 誰かが叫ぶ。


 高杉は、三味線を床に置いた。

 音が、鈍く響く。


「安心しろ」

 彼は言った。

「今日は、俺は撃たせない」


 オコナーが、歯を食いしばる。


「行け」

 高杉は言った。

「生き残れ」


 彼は、地下の奥へと歩く。

 追う者はいない。


 警視庁の命令は明確だ。

 ――捕まえるな。


 炎が上がる。

 誰かが、証拠を消した。


 パブ「チェリー・ブロッサム」は、

 その夜、地図から消えた。


 灰の中に、

 桜の名残だけが残った。


 霧が晴れた朝。


 瓦礫の向こうで、

 ヘイスティングス警視は、燃え跡を見つめていた。


「……やりすぎだ」


 誰に向けた言葉でもない。


 彼は、瓦礫の中から、焼け焦げた撥を拾い上げる。


 それは、もう音を出さない。


 だが――

 確かに、街は聞いてしまった。


 退屈という名の病が、

 治りかけている音を。

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