第七章 霧の中の番犬
アーサー・ヘイスティングス警視は、地図を見ていた。
ロンドン全域を示す大判の地図。
赤い針が、いくつも刺さっている。
倉庫。
パブ。
印刷所。
港湾事務所。
どれも、単独では犯罪と呼ぶには弱い。
だが、線で結ぶと――歪な網になる。
「偶然ではない」
会議室には、五人の男が集められていた。
警視庁でも、最も厄介な人材だ。
統計担当。
港湾警備の元軍人。
植民地警察帰りの捜査官。
電信局から引き抜かれた技師。
そして、ヘイスティングス自身。
「我々は、犯罪組織を相手にしているわけではない」
彼は言った。
「思想でもない。革命でもない」
男たちは黙っている。
「――感染だ」
技師が眉を上げた。
「空気のように広がり、誰が持ち込んだか分からない」
「治療は?」
「隔離だ」
地図の一角、イーストエンドが指される。
「パブ“チェリー・ブロッサム”を中心に、奇妙な集まりが生まれている」
「潰しますか?」
元軍人が即答した。
「いや」
ヘイスティングスは首を振る。
「潰すと、英雄が生まれる」
彼はそれを、最も恐れていた。
「我々は、“間違った選択肢”を与える」
「選択肢?」
「ええ。彼ら自身に、分裂を選ばせる」
統計担当が口を開く。
「内部対立を誘発する、ということですか」
「その通りだ」
法を使い、金を使い、恐怖を使う。
だが、銃は最後だ。
「奇兵は、組織ではない」
「なら、弱点は?」
「“今”だ」
ヘイスティングスは、紙を一枚取り出す。
「彼らは未来を約束しない」
「希望がない?」
「違う。刹那しかない」
だからこそ、長期戦に弱い。
「飢えさせろ」
「職を奪え」
「合法的に、だ」
植民地帰りの捜査官が、静かに笑った。
「慣れています」
ヘイスティングスは、彼を見た。
帝国は、いつもこうしてきた。
秩序の名で、選択肢を奪う。
「最後に」
彼は言った。
「例の日本人だが――」
沈黙。
「捕まえるな」
「……?」
「彼を中心に据えると、すべてが彼の物語になる」
それは、敗北を意味する。
「彼の“居場所”を消す」
「霧ごと、ですか」
「ええ」
会議が終わり、男たちは散っていく。
ヘイスティングスは、一人残った。
地図を見る。
赤い針の一本が、ふと目に留まる。
パブ“チェリー・ブロッサム”。
――面白い。
胸の奥で、そんな感情が芽生えたことに、彼は苛立った。
その頃。
イーストエンドの地下で、少年が走っていた。
「来る……!」
息を切らし、叫ぶ。
「番犬が、来る!」
高杉晋作は、三味線の弦を締め直していた。
「いい知らせだ」
周囲の視線が集まる。
「向こうが本気ってことだ」
「逃げますか?」
誰かが問う。
高杉は、首を振った。
「逃げるときは、必ず音を出す」
「音?」
「合図だ」
彼は、少年に撥を渡す。
「弾け」
「今?」
「今だ」
――ペン。
小さな音。
だが、その瞬間、地下の空気が変わった。
「さあ」
高杉は笑った。
「番犬と、鬼ごっこだ」
霧の帝国で、
秩序と混沌が、同じ速さで走り始めた。




