第六章 電信線の裏側
ロンドンの心臓は、テムズではない。
金だ。
正確には、金が流れる“速さ”だ。
高杉晋作は、シティの外れにある貸し事務所の二階にいた。
壁は薄く、下の階からタイプライターの音が絶え間なく響いてくる。
机の上には、新聞、電信紙、株価表。
どれも彼の時代には存在しなかったものだ。
「便利な世の中になったもんだな」
彼は呟き、紙束をめくる。
部屋の隅では、インド人青年――ラマヌジャンが、紙に数字を書き連ねていた。
異様な速さだ。
「……この値動き、不自然です」
「戦争の匂いか?」
「ええ。ですが、まだ“噂”の段階です」
高杉は頷いた。
噂。
それこそが、帝国を動かす燃料だ。
扉がノックされる。
「入れ」
現れたのは、英国紳士然とした老人だった。
杖をつき、無駄のない身なり。
だが、その眼は獣のものだ。
「……お久しぶりですな、高杉さん」
「変わらんな、グラバー」
高杉は笑った。
「生きてるとは思わなかったか?」
「正直に言えば」
老人――トーマス・グラバーは、帽子を取る。
「幽霊に会う趣味はない」
二人の間に、沈黙が落ちる。
長崎。
鉄。
銃。
金。
帝国と幕府を天秤にかけた男と、
秩序を壊してきた男。
「あなたがロンドンで何をしているか」
グラバーは言った。
「既に噂になっています」
「なら、話が早い」
「早すぎるのが問題なのです」
高杉は椅子に深く腰掛けた。
「俺は、英国を倒しに来たわけじゃない」
「ですが、帝国はそう受け取らない」
「構わん」
高杉は即答した。
「だが、日本を“草刈り場”にさせる気もない」
グラバーの眉が、わずかに動いた。
「……日英同盟の話か」
「その前段階だ」
高杉は、電信紙を指で弾く。
「帝国は、欲張りだ」
「それは褒め言葉ですな」
「だから、目を逸らさせる」
ラマヌジャンが顔を上げる。
「ドイツ……」
「そうだ」
高杉は頷いた。
「敵は一つに絞るべきだ。日本は、その候補にすら入れさせない」
グラバーは、深く息を吐いた。
「あなたは、戦争を――」
「避けてる」
高杉は遮った。
「少なくとも、故郷が焼かれるのはご免だ」
沈黙。
「方法は?」
グラバーが問う。
「噂を、金に変える」
「……危険だ」
「面白いだろ」
高杉は笑う。
彼は、世界の“配線”を見ていた。
銃ではなく、電信線。
艦隊ではなく、株価。
「帝国は、数字で動く」
「なら、数字を狂わせる」
グラバーは、しばらく考え込み、やがて頷いた。
「……一つ条件があります」
「何だ」
「あなたは、表に出ない」
「得意分野だ」
その瞬間、部屋の外で電信機が鳴った。
短く、鋭い音。
ラマヌジャンが紙を取る。
「……警視庁の動きです」
「ヘイスティングスか」
「ええ。特別班が動き始めました」
高杉は立ち上がり、外套を羽織る。
「いいタイミングだ」
「何をするつもりです?」
グラバーが問う。
高杉は、振り返らずに言った。
「帝国に教えてやる」
「何を?」
「本当に怖いのは、銃声じゃない」
霧のロンドンで、
電信線が、静かに軋み始めた。




