第五章 名を持たぬ兵
夜が明ける前のロンドンは、最も正直だ。
霧は薄れ、街の醜さが剥き出しになる。
高杉晋作は、パブの地下で目を覚ました。
石の床は冷たく、肺は相変わらず軋んでいる。だが、死んでいない。
それで十分だった。
階段の上から、足音がする。
慎重な足取り。逃げ道を常に計算している人間の歩き方だ。
「起きてるか、日本人」
オコナーだった。
手には黒パンと、薄いスープ。
「夢は見たか?」
「見てたら、ここにはいない」
高杉は身体を起こし、スープを受け取った。
温かさが、ゆっくりと腹に落ちていく。
「お前さん、いつか死ぬぞ」
「知ってる」
即答だった。
オコナーは肩をすくめる。
「だが、昨日の夜で分かった。お前は“使える”」
「使われる気はない」
「だろうな」
二人は短く笑った。
地下には、他にも人がいた。
皆、名を持っていない。
正確には――名を捨ててきた。
元兵士。
港湾労働者。
浮浪児。
言葉の通じない移民。
彼らは皆、誰かの命令で動くことに疲れている。
高杉は、三味線を膝に置いた。
「集まれ、とは言わん」
声は低く、静かだった。
「命を賭けろ、とも言わん」
視線が集まる。
「俺はただ、面白く生きたいだけだ」
「……それだけか?」
誰かが呟いた。
「ああ。それだけだ」
高杉は、弦を一本、弾いた。
乾いた音。
「だがな」
もう一本。
「この街は、退屈な奴から先に死ぬ」
空気が、わずかに張り詰める。
「俺は、その退屈を壊す」
「帝国相手にか?」
「帝国だから、だ」
高杉は、皆を見回した。
「兵隊が欲しいわけじゃない」
「じゃあ、何だ」
「隣に立つ奴が欲しい」
沈黙。
やがて、少年が一歩前に出た。
昨夜、三味線を触っていた浮浪児だ。
「……名前、要る?」
少年は、恐る恐る聞いた。
高杉は、首を振った。
「名は、檻だ」
「じゃあ……」
「要るのは、合図だけだ」
高杉は撥を渡した。
少年は、弦を叩く。
音は、まだ頼りない。
だが、確かに鳴った。
「それでいい」
高杉は言った。
「今、この瞬間に立ってる。それだけで、もう兵だ」
オコナーが、静かに息を吐く。
「奇兵、か」
「そうだ」
高杉は頷いた。
「名も、階級も、国もない」
「あるのは?」
「今だ」
誰も反論しなかった。
その時、地下の奥から、紙を抱えた青年が現れた。
インド人だ。目が異様に冴えている。
「……計算が合いません」
彼は言った。
「警察の巡回が、今朝から乱れています」
高杉は、にやりと笑った。
「いい兆しだ」
「捕まりやすくなった、という意味では?」
「違う」
高杉は立ち上がる。
「向こうが、俺たちに合わせ始めた」
それは、勝利の兆しだった。
帝国は、常に支配する側だった。
だが今、初めて“反応している”。
高杉は、階段の上を見る。
「さあ、遊びの時間だ」
霧の帝国の底で、
名を持たぬ兵たちが、静かに動き始めた。




