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第四章 ベーカー街の盤上

 霧は、この街では騒音の一種だ。

 視界を奪い、距離感を狂わせ、人の思考を鈍らせる。


 だが、ベーカー街二二一番地の一室では、その霧すら秩序の外に置かれていた。


 暖炉の火。

 几帳面に並べられた薬品瓶。

 壁一面を覆う新聞の切り抜きと、細い赤糸。


 シャーロック・ホームズは、窓際の椅子に腰掛け、ヴァイオリンを顎に挟んでいた。

 弓が動くたび、音は規則的に空気を切り裂く。即興だが、破綻はない。


「音楽は嘘をつきません」

 彼は演奏を止めずに言った。

「人間はつきますがね」


 向かいに座るヘイスティングス警視は、外套を脱がぬまま、黙っていた。

 この部屋では、彼の肩書きは通用しない。


「それで?」

 ホームズが弓を止め、視線を向ける。

「あなたが持ち込んだ“理解不能な存在”というのは」


 ヘイスティングスは、懐から紙片を取り出した。

 あの和歌だ。


 ホームズはそれを受け取り、指先で紙質を確かめ、光に透かした。


「古い筆です。だが、書いたのは最近」

「読めるのか?」

「読めません。ただし――」


 ホームズは、紙を卓上に置いた。


「これは暗号ではない」

「……あなたも、そう言ったな」

「ええ。しかし、あなたの言う“宣言”とも少し違う」


 彼は立ち上がり、壁のチェス盤に向かう。

 白のキングを一つ、盤の外に出した。


「これは“誘い”です」

「誘い?」

「ええ。敵をではない。味方を、です」


 ヘイスティングスは眉をひそめた。


「犯罪者が、そんな非効率なことをする理由がない」

「だから彼は犯罪者ではない」


 ホームズは即答した。


「彼は革命家でもない」

「……は?」


「革命家は未来を語る。理想を掲げ、計画を立てる」

 ホームズは、黒のナイトを動かす。

「この男は、今しか見ていない」


 盤上で、白のキングが包囲される。


「彼が壊しているのは、制度ではありません。あなたの“確信”です」

「確信?」

「秩序は正しい、という確信」


 ホームズは、チェス盤を指先で弾いた。

 駒がわずかに震える。


「彼はこう言っている。“正しさは退屈だ”と」

「……ふざけている」

「ええ。だから危険なのです」


 沈黙。


 暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。


「警視、あなたは彼を捕まえたい」

「当然だ」

「ですが、捕まえた後の姿を想像できますか?」


 ヘイスティングスは答えなかった。


「裁判で、彼は語らない。殉教もしない」

「……」

「笑うだけです。法廷を“舞台”にして」


 それは、最悪の未来だった。

 秩序が、笑いものになる。


「一つ、忠告があります」

 ホームズは静かに言った。

「彼を追うなら、“正面”から行ってはいけない」


「では、どうしろと?」

「盤を変えることです」


 ホームズは、盤外に置いた白のキングを戻した。


「彼は群れを作る。しかし、組織ではない」

「奇兵……と名乗っているらしいな」

「ええ。“兵”ですが、“軍”ではない」


 個人の意思が、緩やかに重なっているだけ。

 だからこそ、切れない。


「彼自身を捕まえようとするな」

「では?」

「彼が“面白い”と思えなくなる状況を作る」


 ヘイスティングスは、初めて視線を逸らした。


「退屈に、殺す……か」

「その通りです」


 ホームズはヴァイオリンを手に取る。


「ですが」

 弓が弦に触れる。

「それが出来るなら、あなたはもう彼に勝っている」


 音が流れる。

 規則正しく、美しい。


 ヘイスティングスは立ち上がり、外套を手にした。


「一つだけ聞かせてくれ」

「何でしょう」

「彼は……何者だ」


 ホームズは、ほんの一瞬だけ笑った。


「時代の迷子ですよ」

「迷子?」

「ええ。本来、死んでいるはずの男です」


 霧の街へ戻る階段を降りながら、ヘイスティングスは思った。


 秩序は、常に未来を管理してきた。

 だが――

 過去から来た亡霊までは、想定していなかった。


 ロンドンの霧の底で、

 死んだはずの男が、今を楽しんでいる。


 それほど不吉なことは、他にない。

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