第三章 秩序という名の病
アーサー・ヘイスティングス警視は、事件現場を「見る」ことはしない。
彼は「読む」。
焼け落ちた倉庫。
崩れた煉瓦の角度。
散乱した薬莢の位置。
火薬の種類、爆圧、破壊の向き。
すべてが、紙の上に置かれた数式のように整然としている――はずだった。
「……説明がつかないな」
呟いた声は低く、誰に向けたものでもない。
倉庫の床に残された焦げ跡は、爆発物の威力から考えれば不自然なほど浅い。
逃走経路も同様だった。警官隊の配置を正確に把握していなければ不可能な動線だが、内部協力者の痕跡はない。
「偶然ではない。だが、計画でもない」
部下の報告書を閉じ、ヘイスティングスは外套の内側から懐中時計を取り出した。
秒針は正確に刻まれている。
時間は、常に秩序の側にある。
――いる。
確信だけが、理屈を追い越して先にあった。
「警視」
若い巡査が、慎重に声をかける。
「例の……歌です」
巡査は、紙片を差し出した。
煤に汚れた紙に、奇妙な筆致で文字が書かれている。
「意味は?」
「分かりません。日本語だそうです」
ヘイスティングスは、それを受け取った。
意味は分からない。
だが、目が離せない。
「……これは命令文じゃない」
「は?」
「宣言だ。しかも、国家や思想に向けたものですらない」
彼は紙を折り、懐にしまった。
ロンドンでは、思想犯は珍しくない。
アナーキストも、社会主義者も、王党派もいる。
だが、この文字には、それらとは違う匂いがあった。
――軽い。
そして、致命的だ。
遊戯のように振る舞いながら、秩序そのものを腐らせる種類の思想。
笑いながら帝国の骨を叩く、不敬の極致。
「異邦人、ですか」
部下が言う。
「東洋から来た、と」
「だから厄介なんだ」
ヘイスティングスは即答した。
彼は、帝国を信じている。
正確な法。
正確な階級。
正確な暴力。
それらがある限り、世界は管理できる。
だが――
管理されることを、最初から拒否している人間は?
秩序の外側に立ち、なおかつ内部を正確に撃ち抜く存在。
「彼は犯罪者ではない」
ヘイスティングスは言った。
「病原体だ」
しかも、空気感染する。
パブ。
浮浪児。
港湾労働者。
移民。
最も統計に出にくい層で、奇妙な連帯が生まれている。
「法改正の必要があります」
部下が言う。
「特別措置を――」
「まだだ」
ヘイスティングスは遮った。
法を変えるということは、帝国が“反応した”と認めることだ。
それは敗北の始まりでもある。
彼は、窓の外を見た。
霧の向こうに、シティの灯りが滲んでいる。
「まずは理解する」
「理解……?」
「敵を、だ」
理解できないものは、排除できない。
それが、彼の信条だった。
ヘイスティングスは、ある名を思い出す。
「……ベーカー街に、相談するか」
探偵の噂。
論理の化身。
もし彼ですら理解できなければ――
その時こそ、帝国は本当に病んでいる。
霧のロンドンで、秩序は初めて、自分より自由な存在を認識した。
それが、破滅の始まりだとも知らずに。




