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第二章 桜花、霧の底

 霧の中を走ると、時間の感覚が壊れる。

 どれだけ走ったのか分からない。足は動いているが、街が進んでいるのか、自分が進んでいるのかも曖昧だった。


 高杉晋作は、肺の奥に溜まった熱を、吐き出すたびに笑った。

 生きている証拠だ。まだ壊れていない。


 路地を曲がる。

 石壁に手をつき、身体を滑り込ませるように進む。遠くで笛の音が鳴ったが、すぐに霧に吸われて消えた。


 ロンドンは奇妙な街だ。

 力を誇示する帝国の心臓でありながら、その血管の奥では、世界中の捨てられたものが澱のように溜まっている。


 高杉は、その澱が好きだった。


 ホワイトチャペルの外れ。

 腐った肉と酒の匂いが混じる裏通りに、看板のない建物がある。窓は小さく、明かりは外に漏れない。


 裏口の扉を、三度叩く。


「……月は」


「東に。日は西に」


 短いやり取り。

 鍵が外れ、扉が開く。


 中は、外よりも暖かかった。

 人の体温と、安酒の熱と、息づかいが混じった空気だ。


 数人の視線が一斉に向く。

 驚きはない。安堵と、諦めが半分ずつ混じった目だ。


「やれやれ……また派手にやったな」


 カウンターの奥から、赤毛の男が声をかける。

 爆薬の扱いで指を失った痕が、雑に隠されている。


「生きてるだろう?」

 高杉は笑い、壁にもたれた。


「いつかは死ぬさ。だが、今日じゃない」

 男――オコナーは、そう言ってグラスを差し出す。


 高杉は一気に煽った。

 喉が焼ける。だが、その痛みすら心地よかった。


 店の奥で、少年たちが身を寄せ合っている。

 浮浪児だ。靴は合っておらず、服は継ぎだらけだが、目だけは異様に鋭い。


 その一人が、高杉の足元に置かれた三味線を見つめていた。


「触ってみるか」


 少年は一瞬ためらい、それから小さく頷いた。


 高杉は撥を渡す。

 泥だらけの手が、恐る恐る弦に触れる。


 ――ペン。


 音は弱く、震えていた。


 だが、高杉は満足そうに笑った。


「いい音だ。最初は皆、そうなる」


 少年は、意味が分からないまま撥を握りしめる。


「覚えとけ。これは歌じゃない。合図だ」

「合図……?」

「そうだ。鎖を切る合図だ」


 少年の目が、わずかに見開かれる。


 店の奥から、別の男が近づいてくる。

 背は高く、顔立ちは東洋とも西洋ともつかない。


「……警察は?」

 低い声。緊張が滲んでいる。


「踊らせてきた」

 高杉は肩をすくめた。

「霧の向こうで、今頃は正しい秩序を探してるだろうさ」


 男は、安堵とも不安ともつかぬ息を吐いた。


 この場所に集まる者たちは、何かを共有している。

 国でも、言葉でもない。


 ――居場所を失った、という一点だけだ。


 高杉は、三味線を取り戻し、弦を張り直す。

 指先が微かに震えたが、気にしない。


 自分がなぜ生きているのか。

 なぜ、この時代にいるのか。


 答えは、まだ霧の向こうだ。


 だが、確信はある。


 この街の底には、かつての長州と同じ匂いがする。

 押し込められ、飼い慣らされ、退屈の名で殺される人間たちの匂いだ。


「さて……」

 高杉は弦を鳴らし、仲間たちを見回した。

「次は、もう少し大きな音を出すぞ」


 誰も笑わなかった。

 だが、その沈黙の中で、火が確かに灯った。


 霧の帝国の底で、名もない奇兵たちが、静かに息を揃え始めていた。

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