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第十二章 番犬、チェス盤を置く

 ベーカー街二二一番地の二階は、奇妙な静けさに満ちていた。


 ロンドンの朝は騒がしい。馬車の音、新聞売りの叫び、遠くで鳴る工場の汽笛。だが、この部屋だけは、都市の喧噪から切り離されたように沈黙している。


 アーサー・ヘイスティングス警視は、暖炉の前に立ち、帽子を脱いだ。


「――手に負えない男がいる」


 ソファに寝転がっていた男が、わずかに身じろぎした。


 シャーロック・ホームズは、バイオリンを膝に置いたまま、視線だけを向ける。


「ほう。あなたがそう言うとは珍しい」


「犯罪者だ。だが、既存のどの分類にも当てはまらない」


 ヘイスティングスは、地図と書類をテーブルに並べた。

 イーストエンド、ドック、パブ、倉庫。赤い印が連なっている。


「暴動を煽るが、破壊しない。金を動かすが、私腹を肥やさない。

 逮捕の機会はあるが、必ず“逃げ道”を残す」


 ホームズは起き上がり、地図を一瞥した。


「逃げ道ではない」


 即答だった。


「観客席です」


 ヘイスティングスの眉が動く。


「観客?」


「ええ。彼は追われる役を演じている。

 追う者が必要なのですよ、警視」


 ホームズはパイプに火を点け、煙を細く吐いた。


「彼が作っているのは犯罪ではない。

 ――物語です」


 ヘイスティングスは、胸の奥が冷えるのを感じた。


「物語だと?」


「英雄と番犬。圧政と自由。

 舞台はロンドン。観客は民衆」


 ホームズは書類の一枚を手に取った。東洋の文字。


「『おもしろき こともなき世を おもしろく』

 ……悪趣味だが、効果的だ」


「捕まえられるか」


 短く問う。


 ホームズは、少し考え、首を横に振った。


「このままでは無理です」


「このままでは?」


「あなたは法を守りすぎている。

 彼は法を“楽器”として扱っている」


 ホームズは、チェス盤を引き寄せた。

 白と黒の駒が、整然と並ぶ。


「あなたはルールの中で勝とうとしている。

 彼は――盤を増やしている」


 白のキングを持ち上げ、別のテーブルに置く。


「奇兵隊、地下印刷、移民ネットワーク、噂話。

 どれも合法と非合法の境界線上」


 ヘイスティングスは、静かに息を吐いた。


「では、どうすればいい」


 ホームズは、黒のナイトをつまみ上げた。


「彼を理解することです」


「理解?」


「ええ。

 彼が何を恐れているか。

 何に飽きているか。

 そして――なぜ死なないのか」


 その言葉に、ヘイスティングスは一瞬、沈黙した。


「彼は病に侵されている。報告では……」


「それでも動く」


 ホームズは遮った。


「死が近い者は、普通、秩序を求めます。

 だが彼は違う。

 ――彼は、退屈を恐れている」


 ホームズはチェス盤を閉じた。


「警視。あなたは番犬だ。

 だが、番犬にも選択肢がある」


「噛み殺すか」


「……導くか」


 ヘイスティングスは、窓の外を見た。

 霧が再び街を覆い始めている。


「私は帝国に仕えている」


「ええ」


 ホームズは微笑んだ。


「だからこそ、あなたが追うべき相手なのですよ。

 ――帝国が生んだ“歪み”を」


 沈黙が落ちる。


 やがてヘイスティングスは、帽子を被った。


「特別班を編成する。

 武力ではなく、情報で」


 ホームズは満足げに頷いた。


「それでこそ、ゲームになる」


 玄関の扉が閉まる音がした。


 ホームズは一人、バイオリンを手に取る。

 弦を引いた瞬間、奇妙な旋律が部屋に満ちた。


「東洋の亡霊か……」


 彼は呟く。


「ロンドンも、退屈しなくて済みそうだ」

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