第一章 黄昏の雷鳴
霧は、夜が来る前からロンドンを支配していた。
白いというより、色を奪う。建物の輪郭は溶け、街路は数歩先で途切れる。人の気配も、足音も、すべてが途中で消えた。
アーサー・ヘイスティングス警視は、その霧を好まなかった。
曖昧なものは秩序を損なう。秩序とは、測定でき、再現でき、説明できるものでなければならない。
外套の襟を立て、彼は歩く。
石畳の感触が、靴底を通して伝わる。背後には十名の警官。歩調は揃い、間隔は正確だ。銃は安全装置を外され、いつでも命令を待っている。
イーストエンドの波止場――この数か月、記録が奇妙に歪み始めた場所だった。
暴動は起きるが、首謀者はいない。
違法な集会はあるが、組織名は存在しない。
逮捕された者たちは、互いに無関係で、しかし同じ言葉を口にする。
「――あの東洋人が」
ヘイスティングスは懐から一枚の紙片を取り出した。
押収された印刷物の切れ端。異国の文字が、整いすぎず、乱れすぎず並んでいる。
――おもしろき こともなき世を おもしろく
意味は分からない。
だが、分からないまま広がっていく言葉ほど危険なものはない。理解不能な概念は、人を動かす。
倉庫の前で、警官隊は止まった。
扉は閉じている。中から音はしない。
合図とともに扉が開かれた。
内部は暗く、湿っていた。火薬と茶葉の匂いが混ざり合い、鼻腔に残る。積み上げられた木箱の上に、人影が一つあった。
男は、英国紳士の外套を着ていた。
だが、その装いはどこか噛み合っていない。裾の奥に覗く紅色が、霧の中で異様に鮮やかだった。
床には帽子が転がり、男の額には赤い布が巻かれている。
彼が顔を上げる。
痩せた輪郭。
熱を帯びた眼。
年齢は分からない。ただ、時間の流れから外れたような印象があった。
「……来たか」
声は低く、静かだった。挑発でも懇願でもない。
「タカスギ・シンサク」
ヘイスティングスは名を告げる。
「国家反逆および不法入国の容疑で拘束する」
男は、一瞬だけ考える素振りを見せたあと、笑った。
声は立てない。ただ、理解できないものを前にした時のような笑みだった。
「反逆、か。便利な言葉だな」
彼は膝の上の楽器――三味線に手を置く。
「俺が壊しているのは、あんたの国じゃない。もっと手前のものだ。……退屈、ってやつだよ」
撥が振り下ろされる。
音は短く、乾いていた。
次の瞬間、空気が裂け、光が走る。
秩序は崩れた。
爆音。
床石が砕け、隊列が乱れる。男の動きは規則を持たず、ただ流れに従っていた。訓練でも計算でもない。
爆発が倉庫の壁を破り、夜気が流れ込む。
ヘイスティングスは、煙の向こうに男の背を見る。
逃げているようには見えなかった。むしろ、どこかへ向かっている。
霧が再び、すべてを覆った。
沈黙が戻る。
残ったのは、破壊された倉庫と、説明不能な空白だけだった。
ヘイスティングスは、霧の中で立ち尽くす。
記録に残せる事実は少ない。だが、確信だけは残った。
――この男は、捕まらないのではない。
――捕まるという秩序の中に、いない。
ロンドンの歯車は、その夜、わずかに噛み合いを狂わせた。
それが帝国のどこまで伝わるのかを、まだ誰も知らなかった。




