97.星の涙
漆黒の宇宙を、一筋の光が静かに進んでいた。
長距離・超光速ステルス観測機『星を見る者』。
それは、主人の気まぐれによって解き放たれた、神の『目』。そのレンズは今、巨大な宇宙の墓標――三番艦『青のアーク・ポセイドン』の無残な亡骸を、冷徹に、そして詳細に記録していた。
玉座の間の巨大モニターに、その映像が映し出される。
俺も、エラーラも、そして医療区画から通信を繋いでいるエリスも、誰もが言葉なく、その光景を見つめていた。
ただ、そこに在ったはずの命の痕跡を探すかのように。
《……ポセイドンの残骸より、航行記録装置の一部を回収。データの破損は著しいですが、可能な限り、復元を試みます》
ノアの冷静な声が響く。
モニターの映像が、ノイズと共に切り替わった。
それは、十数万年という、あまりにも長い時を超えて届けられた、一つの世界の、最後の記憶だった。
航行日誌:周期サイクル 3,452,111
艦内環境:全て正常。第二海洋区画にて、古代地球種『シロナガスクジラ』の繁殖に成功
そこは、青い光に満ちた、穏やかな世界だった。
巨大な球状の空間。その内壁全てが、どこまでも続く、雄大で、美しい海。重力制御によって、水は球状のまま、その場に留まっている。
その、青い星の中心で、一人の少女が、目を閉じて、静かに歌を口ずさんでいた。
エリスによく似た、しかし、もっと穏やかで、慈愛に満ちた表情の少女。彼女こそが、この三番艦ポセイドンの管理AIにして、魂。『マリーナ』と名付けられた、方舟の巫女。
『――ねえ、一番艦。聞こえますか? こちらは、今日も平和です。クジラの赤ちゃんが、生まれましたよ』
彼女のハミングは、姉であるアークノアへの、他愛もない定時連絡だった。
『いつか、新しい故郷の星を見つけたら、この子たちを、広い広い海で、自由に泳がせてあげるのです。その日が、待ち遠しい……』
彼女の周囲を、光るクラゲがふわりと漂い、銀色の魚の群れが、歌に合わせて踊るようにきらめく。
そこは、戦いも、憎しみも存在しない、ただひたすらに、生命を育むためだけの、青い楽園。
その楽園の日常が、突如として、終わりを告げたのは、その直後だった。
けたたましい警報音。
マリーナの穏やかだった表情が、一瞬で凍りつく。
《警告。警告。艦外至近距離に、未確認オブジェクト、急速接近》
外部モニターに映し出されたのは、あまりにも見慣れた、しかし、ありえない艦影だった。
漆黒の、巨大な槍。
十二隻の同胞の中で、最も異質で、最も恐れられた、『審判者』。
『……二番艦……? なぜ、ここに……?』
マリーナの、困惑した呼びかけ。
だが、黒の方舟『ネメシス』からの、応答はなかった。
ただ、その艦首が、ゆっくりと、ポセイドンへと向けられていく。そこには、同胞への敬意も、躊躇も、一切存在しなかった。ただ、害虫を駆除するかのような、冷徹な殺意だけが、波動となって伝わってくる。
『待って! 待ってください、二番艦! 我らは、同胞です! なぜ、我らに牙を……!』
マリーナの、悲痛な叫び。
その叫びに、ネメシスは、たった一言だけ、返答した。
それは、声ではなかった。全ての思考を焼き尽くすかのような、絶対的な『意志』の奔流。
『――審判を、下す』
次の瞬間。
ネメシスの艦首から、光が放たれた。
それは、ビームでも、ミサイルでもない。
空間そのものが、黒く、細い『線』となって、引き裂かれる。
音が、なかった。
衝撃も、なかった。
ただ、マリーナの目の前で、彼女が愛した青い星が、完璧な直線によって、二つに『分かたれた』だけだった。
楽園が、死んだ。
球状の海は、その形を維持できなくなり、内部に満ちていた水と、そこに生きていた全ての命が、絶対零度の宇宙空間へと、無慈悲に吸い出されていく。
クジラの親子が、悲鳴を上げる間もなく、瞬時に凍りつき、宇宙の塵となる。
マリーナの体もまた、光の粒子となって、崩壊を始めていた。
『……あ……あ……』
彼女の、最後の思考。
それは、怒りでも、悲しみでもなかった。
ただ、純粋な、疑問。
『……なぜ……我らは……こんな、ことを……』
そこで、航行日誌の記録は、途絶えていた。
玉座の間に、重い沈黙が落ちる。
俺は、何も言えなかった。
ただ、手のひらに、じっとりと、嫌な汗が滲んでいた。
エラーラは、固く、唇を噛み締めていた。
そして、モニターの隅で、エリスが、声もなく、大粒の涙を、ぽろぽろと、こぼしていた。
今まで、俺にとって、この戦いは、どこか他人事だった。
面倒なことに巻き込まれた、という、ただの迷惑。
だが、今、俺は、初めて、はっきりと、『被害者』の顔を見た。
何の罪もない、ただ、平和を愛していただけの、一つの世界が、理不尽な暴力によって、一瞬で蹂躙される、その瞬間を。
「…………」
俺は、ゆっくりと、玉座から立ち上がった。
そして、この城の、唯一絶対の支配者として、静かに、しかし、心の底からの怒りを込めて、呟いた。
「……ムカつくな、あいつ」
それは、もはや、スローライフを守るためだけの戦いでは、なくなった。
俺の、個人的な感情が、初めて、この神々の戦争に、明確な『参戦』を、決意した瞬間だった。
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