93.究極遊戯
医療区画の静寂の中で、エリスは、ベッドの上に置かれたホログラムモニターを、ただ、呆然と見つめていた。
sこに表示されているのは、たった一つの、不気味な事実。
『二番艦『黒のアーク・ネメシス』。……信号、なし』
他の十一隻の方舟。その全てが、数万年から十数万年前に、絶望的な遭難信号を発信し、その痕跡を宇宙の藻屑と消していた。
だが、この二番艦だけが、違う。
悲鳴も、助けを求める声も、何一つ、発していない。ただ、まるで最初から存在しなかったかのように、完璧な沈黙を守っている。
(……なぜ……)
エリスは、震える手で、ベッドのシーツを強く握りしめた。
自分は、最後の一人では、なかったのかもしれない。
その、淡い希望。だが、それと同時に、希望よりも遥かに大きな、底知れない恐怖が、彼女の心を支配していた。
「……ノア」
彼女は、部屋に響く、自らの声のか細さに、驚いた。
「『黒のアーク・ネメシス』に関する、全ての情報を、開示してください」
《承知しました》
ノアの、いつもと変わらない平坦な声が、無慈悲に、事実だけを告げていく。
《二番艦『黒のアーク・ネメシス』。建造目的:対『大災厄』用、殲滅及び、審判代行艦》
「……審判?」
《はい。他のアークが、生命の種を未来へ運ぶ『揺り籠』であったのに対し、ネメシスは、我らが文明を滅ぼした『大災厄』そのものを、宇宙の果てまで追跡し、完全に破壊するための、『剣』として建造されました。十二隻の方舟の中で、最も秘匿され、そして、最も強大な戦闘能力を有します》
モニターに、ネメシスの設計図らしきものが表示される。
アークノアや、エリスの故郷であったアルカディアが、生命を育むための、優雅な曲線を持っていたのに対し、その艦は、ただ、敵を貫くためだけに存在する、巨大な黒い槍のような形状をしていた。
《最終観測記録は、他のアークと同様、十数万年前。ですが、遭難信号は、一切、確認されていません。……ただ、ネットワークから、その存在が、忽然と消えた。それが、全ての記録です》
エリスは、方舟の巫女としての、本能的な直感で、いくつかの可能性を導き出した。
一つ。ネメシスは、最初に、そしてあまりにも速やかに、破壊された。遭難信号を発信する、一瞬の猶予もなく。
一つ。ネメシスは、敵から逃れるため、あるいは、今もなお敵を追跡するため、全ての通信を遮断し、完璧な沈黙を保つ『深淵航行モード』に移行した。
そして、最後の一つ。最も、考えたくない、最悪の可能性。
(……ネメシスが、自らの意志で、我らを見捨てたとしたら……?)
『審判』の名を持つ、最強の同胞。
その剣が、もし、我らに向けられていたとしたら。
エリスは、その恐るべき想像に、身を震わせた。
これは、自分一人で抱え込める問題ではない。この城の、そして、この世界の運命に関わる、あまりにも大きな謎だ。
「……行かなければ」
彼女は、まだ万全とは言えない体に鞭打ち、ベッドから降りた。
この事実を、そして、この危機を、伝えなければならない。
この城の、唯一絶対の支配者。あの、掴みどころのない、しかし、神の如き力を持つ、管理人カインの元へ。
【天空城アークノア 玉座の間】
その頃、俺は、人生で最も白熱した戦いの、真っ只中にいた。
「――そこだッ!」
俺は、玉座の前の床に広げられた、巨大なボード盤の上で、一つの駒を、力強く動かした。
「俺の、『究極超神聖グレートポテト男爵』の攻撃! エラーラの『紅蓮の魔剣姫』を撃破だ!」
「なっ……! 馬鹿な、私の完璧な布陣が……!」
ボード盤の向かい側で、エラーラが、本気で悔しそうな顔で、呻き声を上げた。
これは、俺が、先日解放された『機械製造指示』の権能を、最大限に活用して作り上げた、究極の盤上遊戯――『天空創世記』。
プレイヤーは、神となって、自らの駒を『創造』し、盤上で戦わせる。駒の強さは、その名前の「格好良さ」と「強そう度」によって、ノアがリアルタイムで判定するという、画期的なシステムだ。
「陛下! エラーラ様の背後が、手薄にございます! 我が『神聖農具カマーン』にて、側面より突撃を!」
俺の隣では、村長が、軍師気取りで、興奮しながら叫んでいる。彼の駒は、なぜか農具を擬人化したものばかりだった。
俺は、この数日間、このゲームに完全にハマっていた。エラーラも、最初は「下らん」と馬鹿にしていたが、一度プレイするや、その負けず嫌いな性格に火がついたのか、今や俺と互角に渡り合う、最強のライバルとなっていた。
その、あまりにも平和で、あまりにも真剣な遊びに、水を差すように、玉座の間の扉が、静かに開いた。
エリスだった。
彼女は、その場の異様な光景――床に広がる巨大なボード盤と、その上で繰り広げられる、ポテトだのカマだの、紅蓮だのといった駒の戦いを、呆然と見つめている。
「……あの……管理人、様……?」
彼女の、か細い声。
俺は、盤上から一瞬だけ顔を上げ、彼女に気づいた。
「おお、エリス! ちょうどいいところに来たな!」
俺は、手元に置いていた、まだ盤に出していない、とっておきの駒を、彼女に見せた。
それは、どう見ても、ただのサツマイモに、手足が生えただけの、不格好なゴーレムの駒だった。
「今、エラーラを追い詰めてるんだけどさ、ここで、こいつを投入すべきか、すっごい悩んでるんだよ」
「…………」
「エリス! ちょうどいいところに来た! この『究極甘藷大王』の特殊能力、『甘蜜の罠』は、この盤面において、強すぎると思うか!?」
エリスは、何も答えられなかった。
彼女は、宇宙規模の、文明の存亡に関わる、重大な危機を報告しに来たのだ。
だというのに、目の前の『神』は、サツマイモのゴーレムが強すぎるかどうかについて、真剣な眼差しで、彼女に意見を求めている。
彼女は、ようやく、悟った。
この城の主は、神でも、王でも、英雄でもない。
ただ、自分の興味のあることだけに、全力で、そして、純粋に、生きている、一人の男なのだ、と。
そして、その、あまりにもマイペースな在り方こそが、この城の、絶対的な『中心』なのだ、と。
「……いえ……」
エリスは、ゆっくりと、首を横に振った。
「……それは、少し、強すぎる、かと……思います」
彼女は、自らが抱えてきた、宇宙の危機を、一旦、心の奥底に、そっと、しまい込んだ。
今は、どうやら、それどころではないらしい。
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