92.神国
天空城アークノアは、その日も、完璧な平穏の中にあった。
城の主である俺が、気まぐれで宇宙の果てに超高性能なスパイ衛星を打ち上げたことなど、ほとんどの住民は知らない。彼らにとって重要なのは、ただ一つ。神君カインが定めた、絶対の法に従うことだけだった。
居住区画の広場に、荘厳な鐘の音が鳴り響く。
それは、昼下がりの訪れを告げる合図。
「――おお! 『聖なる午睡』の時間だ!」
畑を耕していた元農夫が、鍬を置いて大きく伸びをする。
城の建設に従事していた元石工が、槌を置いて、近くの芝生にごろりと寝転がる。
市場で商いをしていた元商人が、店先でうたた寝を始める。
街は、まるで魔法にでもかかったかのように、一斉に、静かな寝息に包まれていった。
『昼寝の義務』。
管理人カインが定めたこの奇妙な法律は、今や、この国の最も神聖で、最も重要な儀式となっていた。
だが、この国で起きている変化は、それだけではなかった。
元オークヘイブンの素朴な村人たちと、元王都アヴァロンの洗練された都人たち。出自も文化も全く違う二つの集団は、カインという共通の神を崇めることで、奇妙な、しかし確かな融合を遂げつつあった。
例えば、居住区画の一角にある、巨大な工房。
そこでは、かつてアヴァロンで王家の武具を打っていたという、伝説の鍛冶職人ドワーフの老人が、目を輝かせながら、若い職人たちに檄を飛ばしていた。
「違う! そうではない! もっと、神の御業に近づくのだ!」
彼らが挑んでいるのは、剣や鎧を作ることではない。
ノアの物質生成機能――何もない空間から、完璧な金属のインゴットを生み出す、あの奇跡の再現だった。
「我らは、神の奇跡を、ただ享受するだけではない! その御業を学び、理解し、我ら人の手で、この地に顕現させるのだ! それこそが、我らにできる、最高の信仰の形であろうが!」
彼らの情熱は、もはや職人の探究心というよりは、神学者のそれに近かった。天空城の超技術は、彼らにとって、解析すべき科学ではなく、解き明かすべき『聖典』なのだ。
「――気合が足りんッ!」
訓練場で、エラーラの竹刀が、うなるような音を立てて空を切る。
彼女の前では、元アヴァロンの近衛騎士だった者たちと、オークヘイブン村の屈強な若者たちで構成された『神聖自警団』が、汗だくになって木剣を振っていた。
「お前たちの王は、神は、いつ、また気まぐれを起こすか分からんのだぞ! 次は、大陸ごとひっくり返すかもしれん! その時、お前たちは、ただ祈っているだけで、神の御身と、この国を守れるのか!」
エラーラの指導は、容赦がない。だが、誰一人として、弱音を吐く者はいなかった。
休憩中、元近衛騎士団長だった男が、エラーラの元へやってきた。
「剣聖殿。一つ、手合わせをお願いできないだろうか」
「……ふん。いいだろう」
二本の木剣が、激しく交錯する。
男の剣筋は、鋭く、そして正確だ。だが、数合打ち合った後、エラーラは、その剣に、以前にはなかった『何か』が加わっていることに気づいた。
迷いのなさ。死をも恐れぬ、絶対的な覚悟。
「……貴様ら、変わったな」
エラーラの木剣が、男の喉元で、ぴたりと止まる。
「以前のお前たちには、国への忠誠はあっても、死への恐怖があった。だが、今の貴様らの剣には、それがない。……なぜだ?」
男は、汗を拭い、晴れやかな顔で答えた。
「我らは、一度、死んだも同然の身。それを、カイン陛下に救われ、この楽園で、第二の生を賜りました。この命は、もはや我らのものではなく、神に捧げたもの。……死は、恐怖ではありません。神の御許へ還る、至上の栄誉なのですから」
「……」
エラーラは、何も言えなかった。
狂信。そう切り捨てるのは、簡単だ。だが、その狂信が生み出す、この絶対的な強さ。それは、彼女が知る、どんな騎士団よりも、恐ろしく、そして、美しいものに思えた。
「――そして、神は、言われたのです。『星を見る者』を、天の彼方へと解き放て、と!」
夜。城の建設が進む広場で、村長が、集まった国民たちに、今日の『福音』を語り聞かせていた。
彼は、ノアから与えられる断片的な情報を、彼独自の解釈で、壮大な神話へと昇華させる、事実上の教祖となっていた。
「我らが神は、今や、この地上の安寧だけでは、満足なされていない! その御心は、遥か星々の海へと向けられているのです! やがて、このアークノアは、全ての星々を照らす、唯一絶対の『聖地』となることでありましょう!」
「おおおお……!」「なんと、壮大なる……!」
国民たちは、涙を流し、ひれ伏し、自らの神が、宇宙の支配者となる未来を、確信していた。
【医療区画】
その頃、エリスは、静かな医療区画のベッドの上で、その熱狂の喧騒を、どこか遠い世界の出来事のように聞いていた。
カインが、主砲の発射を止めた。その事実は、彼女の心に、複雑な影を落としていた。
(……管理人様は、優しすぎる。あの者たちは、優しさで滅ぼせるような、生易しい相手ではないのに……)
復讐を果たせぬ無力感と、自分を救ってくれたカインへの感謝。その二つの感情が、彼女の中で渦を巻いていた。
その時、部屋に、ノアの静かな声が響いた。
《エリス。スターゲイザーからの、初期広域スキャンデータが届きました》
「……そうですか」
《目標宙域への到達には、まだ時間を要します。ですが……》
ノアは、珍しく、言葉を続けた。
《……その航行ルート上で、極めて微弱ながら、貴女の同胞……他の『方舟』のものと思われる、古い遭難信号を、複数、検知しました》
「――!」
エリスは、息を呑んだ。
「……生き残りが……いるのですか!?」
彼女の声は、震えていた。
だが、ノアの返答は、その淡い期待を、無慈悲に打ち砕くものだった。
《……はい。ですが、その信号は、いずれも、数万年から、十数万年前に発せられた、ただのエコーのようです。信号の発信源は、既に、ブラックホールに飲み込まれているか、あるいは、恒星の超新星爆発によって、跡形もなく消滅しています》
《……生存の、可能性は》
《――限りなく、ゼロです》
エリスは、何も答えられなかった。
自分は、本当に、最後の一人になってしまったのかもしれない。
だが、ノアは、さらに、一つの、不可解な情報を付け加えた。
《……ただ、一つだけ。例外があります》
「……?」
《十二隻の方舟のうち、ただ一隻だけ。二番艦『黒のアーク・ネメシス』。その艦からだけは、遭難信号すら、発せられていません》
《――まるで、最初から、そこに『存在しなかった』かのように》
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