90.お菓子の終わり
大菓子博覧会は、その幕を閉じた。
百を超える竜の襲来、伝説の魔女たちの激突。その全てを飲み込んで、祭りは、皇帝ゲルハルトの狂気じみた号令の下、最後まで続けられた。
だが、祭りが終われば、夢から覚める時が来る。
帝都ヴァイスは、再び、厳しい現実と向き合うこととなる。
【帝都ヴァイス 帰路】
「――カイン様! また、遊んでいただけますか!」
帝都の門の前で、聖女アンナが、俺の服の袖をぎゅっと掴んで、潤んだ瞳で尋ねた。
彼女の隣では、枢機卿ヴァレリウスが、もはや神の化身を見るかのような、畏敬と恐怖が入り混じった、複雑な表情で佇んでいる。
結局、聖王国は、俺の正体を見極めることも、断罪することもできなかった。ただ、彼らの聖女が、俺にすっかり懐いてしまったという、皮肉な結果だけが残った。
「もちろん! 今度は、俺の城に招待するよ。もっとすごいお菓子、食べさせてやるからな!」
俺がそう言ってアンナの頭を撫でると、彼女は満面の笑みを浮かべた。
ヴァレリウスは、その光景を、諦めたように見つめていた。
(……もはや、あの御方は、我らが測れる存在ではない。悪魔か、神か。否、そのどちらでもない、もっと気まぐれで、そして根源的な『何か』だ。我らにできることは、ただ、祈ることのみ……)
彼は、聖女という最強のカードを、敵の懐に預けるという、苦渋の決断を下し、深々と頭を下げた。
【仮設王城 最高司令室】
皇帝ゲルハルトは、玉座で、ギュンターからの最終報告を聞いていた。
「天空の主は、先ほど、帝都を離れました。去り際に、一言だけ。『菓子は、美味かった』と」
「……そうか」
ゲルハルトは、深いため息をついた。
国費を傾け、大陸中を巻き込んだ壮大な罠。その結果、得られたものは、何だったのか。
天空城の圧倒的な戦力を見せつけられ、聖王国に内政干渉の口実を与え、そして、帝都を再び戦場にされただけ。
だが、一つだけ、収穫はあった。
「……ギュンター。我らは、もはや、あの御方を、コントロールしようなどと、考えてはならん」
「……御意」
「あれは、天災だ。あるいは、気まぐれな神だ。我らにできることは、ただ、その機嫌を損ねぬよう、最高の供物を捧げ続けることのみ。……今後、帝国最高の菓子職人が作った菓子を、定期的に、天空城へと献上せよ。これを、帝国の最重要国策とする」
覇王は、ついに、神を御することを諦めた。
ただ、ひたすらに、そのご機嫌を取るという、最も現実的で、最も屈辱的な、共存の道を選んだのだ。
【とある酒場】
「――で、これが今回の報酬だ。確かめてくれ」
東の魔女テラが、ずっしりと重い金貨の袋を、テーブルの上に置く。
北の魔女リディアと、南の魔女フレアは、それを一瞥すると、興味なさそうに、それぞれ酒を呷った。
「馬鹿馬鹿しい。あんな化け物の相手をさせられて、これっぽっちか」
リディアが、不機嫌そうに呟く。
「まあまあ! おかげで、面白いものが見れたじゃないか。あの金ピカの天使様、すごかったよな!」
フレアは、楽しそうに笑う。
「……だが、あれは、我らが関わっていい領域を超えている」
テラが、静かに、しかし重々しく言った。
「次に何かあっても、俺はもう乗らん。皇帝が、国中の財宝を積んできたとしても、だ。……神々の遊びの用心棒など、割に合わん」
伝説の魔女たちは、この一件から、完全に手を引くことを、暗黙のうちに合意した。
【大陸某所・寂れた港町の隠れ家】
潮の香りが、開け放たれた小さな窓から吹き込んでくる。
シャルロッテ・フォン・シュタインは、パティシエの純白の服を脱ぎ捨て、今は質素な旅人のマントを羽織っていた。彼女は、窓の外の喧騒を、無感動な目で見つめていた。
彼女の元にも、報せは届いていた。リーダーの死。組織の、事実上の壊滅。
(……失敗ではない。これは、始まり)
彼女は、誰よりも深く、あの城の、そしてあの管理人の本質に触れた。
帝国が求める、矮小な技術。組織が崇める、盲目的な神。どちらも、本質を理解してはいない。
あの城は、ただの兵器ではない。生命を生み出し、育み、そして守る、巨大な『揺り籠』。そして、その中心にいる管理人カインは、神でも、王でもない。ただの、無垢で、食い意地の張った『赤子』。だからこそ、あの城――あの『母親』は、彼を、絶対的に、狂信的に、守護するのだ。
(エリクサー……母親の病……)
かつて、自分を縛っていた枷。だが、今の彼女には、もっと大きな野望が芽生えていた。
あの城の力。生命すら自在に操る、神の領域の技術。それさえ手に入れれば、エリクサーすら、作り出せるのではないか?
シャルロッテは、静かに立ち上がった。彼女は、もはや帝国の駒でも、組織の人形でもない。神の秘密を、その目で見た、唯一の人間。彼女は、自らの意志で、新たなゲームを始めることを決意した。
組織の残党をまとめ上げ、帝国を欺き、そして、いつか、再び、あの無垢なる神の前に、今度こそ、本物の『毒』を仕込んだ、最高の菓子を届けるために。
【天空城アークノア】
玉座の間に戻った俺は、祭りで手に入れた大量のお菓子を前に、ご満悦だった。
だが、城の中の空気は、俺が地上で遊んでいる間に、少しだけ、変わっていた。
「……これが」
医療区画で、眠りから覚めたエリスが、アークエンジェルが持ち帰った、『隷属の首輪』の破片を、震える手で受け取っていた。
その破片に刻まれた、微弱な空間座標のデータ。
「……間違い、ありません。これは、彼らが使う、空間転移ゲートの、固有周波数です。これを、逆探知すれば……!」
彼女の瞳に、復讐の炎が、再び燃え上がった。
そして、俺は、玉座の間で、エラーラに今日の武勇伝(主にお菓子をどれだけ食べたか)を、自慢げに語っていた。
「いやー、楽しかったなー! 次は、いつ行けるかな!」
「……もう、行くな」
エラーラの、心底疲れたような声。
その、あまりにも平和な俺たちの頭上、遥か高く。
城の、最深部。誰も知らない、管制室で。
ノアと、三体のアークエンジェルたちが、巨大な星図を前に、冷徹なシミュレーションを開始していた。
《――座標特定、完了》
《対象は、この銀河系の、既知宙域外。次元の狭間に潜む、移動要塞と推定》
《対侵略者迎撃シークエンス、『神の鉄槌』の、第一フェーズに移行します》
モニターに、アークノアの主砲――『太陽を砕く光槍』の、充填シークエンスが、静かに表示された。
その照準が、宇宙の、遥か彼方の一点に、寸分の狂いもなく、定められていく。
俺の、甘くて楽しいお祭り騒ぎは、終わった。
そして、俺の全く知らないところで、星々を揺るがす、本当の戦いの火蓋が、今、切られようとしていた。
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