85.器④
帝都ヴァイスの地下深くに広がる、忘れられた水道網。その一角に、彼らの神殿はあった。
湿った空気、滴り落ちる水の音、そして、蝋燭の頼りない光。フードの集団『沈黙の福音』のリーダーは、祭壇に置かれた通信用の水晶が、約束の時刻を過ぎても沈黙を保っていることに、静かな苛立ちを感じていた。
「……まだ、シャルロッテからの連絡はないのか」
その声は、地下の静寂に、不気味に響いた。
側近の一人が、沈黙の会釈で応える。
(――はい。定時連絡の時刻を、既に三時間は過ぎています。何らかのトラブルに巻き込まれた可能性が)
トラブル。その言葉に、リーダーは自嘲気味に鼻を鳴らした。
あの天空城で、トラブルに巻き込まれない方がおかしい。シャルロッテは、我らが送り込んだ最高の駒。その美貌、その知性、そして、その菓子作りの腕。あの無垢なる神の心を解かすには、十分すぎるほどの毒だったはずだ。
だが、同時に、彼女はあまりにも深く、敵の懐に入り込みすぎていた。
あの城のAI『ノア』。そして、新たに現れたという方舟の巫女『エリス』。予測不能な変数が、多すぎる。
(……計画を、早めるしかあるまい)
リーダーは、決断した。
シャルロッテが管理人を地上へと誘い出すという、悠長な計画は、もはや破綻したのかもしれない。ならば、次の一手。より強引に、より直接的に、神の心を揺さぶる一手を打つ。
「『心臓』の調整を急がせろ。今宵、我らは、新たな神託を、天へと捧げる」
彼の号令一下、神殿はにわかに活気づいた。
メンバーたちが、祭壇の奥に安置された巨大な機械――『緑色の心臓』を収めた、あのおぞましい装置へと駆け寄る。管を繋ぎ、魔力を注ぎ、複雑な術式を起動させていく。
彼らの目的は、この『心臓』の力を部分的に解放し、そのエネルギーを帝都上空へと放つこと。それは、天空城の管理人だけが感知できる、特殊な信号となるはずだった。
『――ここに、あなたの同胞がいる』と。
その甘美な呼び声に、あの無垢なる神が、どう反応するか。リーダーは、その様子を想像し、口元に歪んだ笑みを浮かべた。
その、計画が実行に移されようとした、まさに、その時だった。
ピリ、と。
リーダーの肌が、粟立った。
それは、魔力でも、殺気でもない。もっと根源的で、抗いようのない、絶対的な『何か』。
例えるなら、晴れた日に、ふと、空から巨大な鷲に睨みつけられていることに気づいた、一匹の鼠の感覚。
「……!?」
リーダーは、弾かれたように顔を上げた。
「……見られている……?」
どこから? 帝国か? いや、違う。この神殿を覆う隠蔽魔術は、完璧なはず。
ならば、どこから。
答えは、一つしかなかった。
「――天、か……!」
その絶望的な結論に、彼がたどり着いたのと、神殿に異変が起きたのは、ほぼ同時だった。
最初に狂ったのは、彼らが脱出経路として用意していた、転移魔法陣だった。
床に描かれた術式が、突如、禍々しい紫黒の光を放ち、その形をぐにゃりと歪ませていく。
「なっ!? 魔法陣が、制御不能!」
「うわあああっ!」
術式の調整をしていたメンバーの一人が、暴走した魔力に巻き込まれ、悲鳴と共に、空間の裂け目に吸い込まれて消えた。
それは、始まりに過ぎなかった。
神殿の壁、天井、床。そこに刻まれていた、あらゆる防御術式、隠蔽魔術が、次々と、同じように暴走を始める。
空間そのものが、まるで意思を持ったかのように、彼らに牙を剥き始めたのだ。
「馬鹿な……! 我らの魔術が、我らを攻撃しているだと!?」
リーダーは、戦慄していた。
これは、ただの魔術妨害ではない。もっと、高度で、陰湿な攻撃。
敵は、我らの魔術体系を、完全に解析し、その術式の根幹に、外部から『ウイルス』を送り込んでいるのだ。
天空城が、進化したのだ。
シャルロッテの失敗は、ただの駒の損失ではなかった。敵に、自分たちの牙の形を教え、その牙をへし折るための、新たな牙を、与えてしまったのだ。
「――撤退! 全員、撤退せよ!」
リーダーが絶叫する。
だが、もはや、逃げ場はなかった。
神殿全体が、制御不能の魔力によって、崩壊を始めていた。
リーダーは、非情な決断を下した。
彼は、側近の数名と共に、『緑色の心臓』を収めた容器へと駆け寄る。
「……貴様らは、ここで時間を稼げ。我らが主君を、この地上にお迎えするため、この『心臓』だけは、何としても守り抜かねばならん」
それは、仲間を見捨てるという、冷酷な命令。だが、狂信に満ちたメンバーたちは、それを、至上の栄誉として受け入れた。
「「御意に!」」
リーダーは、最後の、そして最も安定性の高い、緊急用の小型転移魔法陣を起動させる。
暴走する魔力の嵐の中、彼らが、光の中にその身を投じようとした、その時だった。
神殿の唯一の入り口である、重い鉄の扉が、外側から、凄まじい轟音と共に、吹き飛ばされた。
「――帝国保安部だ! 全員、武器を捨てて投降しろ!」
雪崩れ込んできたのは、帝国の重装歩兵たち。
隠蔽魔術が無効化され、彼らの正確な位置情報が、帝国に筒抜けになっていたのだ。
「……クク……ハハハハ!」
その、絶望的な光景を前に、リーダーは、狂ったように笑い始めた。
「そうか、そうか! これが、貴方のやり方か、天空の神よ! 我らを、ただ潰すのではなく、我らが駒として見ていた人間に、狩らせる、と! なんという、悪趣味な……!」
彼は、最後の力を振り絞り、転移魔法陣へと飛び込んだ。
「必ず、必ずや、迎えに来るぞ、我が神よ……! その時は、この地上を、貴方様のためだけの、清浄なる祭壇へと変えて……!」
その狂信的な言葉を最後に、リーダーたちの姿は、光の中に消えた。
後に残されたのは、帝国兵に取り押さえられる、数名の狂信者と、もはや主を失い、静かに脈動を続ける、巨大な機械だけだった。
【天空城アークノア 玉座の間】
俺は、その一部始終を、玉座の間のモニターで、ただ、呆然と眺めていた。
味のないポップコーンが、口の中で、砂のように感じられた。
「……なんか、自滅したな、あいつら」
俺が、そう呟くと、隣に立つエラーラが、静かに、そして、震える声で言った。
「……違う。これは、一方的な蹂躙だ。あの城は、もはや、我々が知るアークノアではない。……あれは、指一本触れずに、敵の全てを内側から崩壊させる、冷徹な『神』そのものだ」
俺は、何も答えられなかった。
ただ、モニターの片隅で、冷静に『脅威対象の78%を無力化』と表示する、ノアのテキストを、ぼんやりと見つめることしか、できなかった。
俺の、平和なスローライフを守るための戦いは、俺が全く関与しないところで、あまりにもあっけなく、そして、あまりにも恐ろしい形で、その幕を開けたのだった。
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