表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

82/121

82.器①

「――そして、その人物が、今、貴方が最も信頼し、その側に置いている、人間だとしたら……」

 エリスの、エメラルドグリーンの瞳が、俺の後ろ――完璧な微笑みを浮かべたまま、静かに佇む、一人の女性を、まっすぐに射抜いた。

 帝国宮廷主席パティシエ、シャルロッテ・フォン・シュタイン。

 俺の、信頼する『おやつ大臣』。

 医療区画の空気が、凍りついた。

 時が、止まったかのような、絶対的な沈黙。

 その沈黙を、最初に破ったのは、俺の、あまりにも間の抜けた声だった。

「……は? え、何言ってんの、エリス?」

 俺は、振り返って、シャルロッテの顔を見た。彼女は、いつも通り、完璧で、優雅な笑みを浮かべている。

「シャルロッテだぞ? 俺に、毎日、最高のケーキを作ってくれる、あのシャルロッテだぞ? 何かの間違いだろ」

「……管理人。貴様は、まだ、分からないのか」

 俺の隣で、エラーラが、静かに、しかし、鞘にかけた手にはっきりと力を込めて、呟いた。

「……私は、最初から、この女が気に食わなかった。その完璧すぎる所作、その隙のない立ち居振る舞い、そして、その瞳の奥に隠した、氷のような冷たさ。……ただの菓子職人のものではない、と」

 シャキン、と。

 エラーラが、その愛剣を抜き放つ。切っ先は、寸分の狂いもなく、シャルロッテの喉元に向けられていた。

「――答えろ、女狐。貴様、何者だ」

 エラーラの、剥き出しの殺気。

 だが、シャルロッテは、その完璧な微笑みを、少しも崩さなかった。

 彼女は、ゆっくりと、その視線を、エリスへと移す。

「……驚きましたわ。まさか、あのアークの生き残りが、ここまでたどり着いていたとは。そして、私の正体を、ここまで正確に見抜くとは。……方舟の巫女、でしたかしら? 貴女のことは、リーダーからも、聞いておりましたのに」

 その言葉は、肯定だった。

 あまりにも、あっさりとした、全面的な肯定。

「……シャルロッテ……?」

 俺は、信じられない、という顔で、彼女の名前を呼んだ。

「お前、本当に……?」

「『器』……。なんと、下品な呼び方でしょう」

 シャルロッテは、心底うんざりしたように、肩をすくめた。

「私は、こう呼ばれたいのですわ。――新たなる神を、その身に宿すために選ばれた、**『聖母』**である、と」

 彼女の瞳から、理知的な光が消え、代わりに、あのフードの集団と同じ、狂信的な熱が、燃え盛った。

「――やはり、貴様ッ!」

 エラーラが、踏み込もうとした、その瞬間。

 玉座の間から、いや、城の全てから、ノアの、今まで聞いたことのない、極めて危険な警告音が鳴り響いた。

《警告。警告。対象:シャルロッテ・フォン・シュタインの生体反応に、致命的な異常を検知》

《対象の体内より、現在、急速に活性化しつつある、敵性『魔術的ウイルス』のパターンを、明確に確認》

《――脅威レベル判定を、カテゴリーSに更新。ただちに、対象の完全拘束プロトコルに移行します》

 ノアの宣告と同時に、シャルロッテの足元の床が、幾何学模様の光を放ち始める。

 次の瞬間、光の柱が、彼女の体を包み込み、身動き一つ取れない、完璧な光の檻――『時間停止結界クロノ・ステイシス』が、形成された。

「……これが、この城の……!」

 エラーラが、息を呑む。神の如き力。これならば、いかにシャルロッテが手練れであろうと、逃れることは不可能。

 誰もが、そう確信した。

 だが、シャルロッテは、その光の檻の中で、笑っていた。

「……素晴らしいですわ、ノア。さすがは、一番艦。ですが……」

 彼女は、ゆっくりと、その指先を、光の壁に、そっと触れさせた。

「――そのルールは、もう、古いのです」

 ピシリ、と。

 光の檻に、一本の亀裂が走った。

 シャルロッテの体から、禍々しい、紫黒のオーラが立ち上り、この城の絶対的な法則を、内側から侵食し、破壊していく。

《……なっ!? 結界が、汚染されていきます! ありえません! 私の知らない、未知の干渉プロトコル……!》

 ノアの、冷静だった声に、初めて、明確な『動揺』が混じった。

「言ったでしょう? 私は、ただの『器』ではない、と」

 シャルロッテの体が、ゆっくりと、宙に浮かび上がる。

 彼女の足元に、あのフードの集団が使うものと同じ、空間を歪ませる、転移魔法陣が、禍々しい光を放ち始めた。

「私は、この日のために、この城のルールを、ほんの少しだけ、『上書き』する方法を、学ばせていただいたのですから」

 バリンッ!

 光の檻が、ガラスのように砕け散る。

 シャルロッテは、ゆっくりと、俺の方を振り返った。その顔には、もはや、あの優しいパティシエの面影はなかった。

 あるのは、神を弄ぶ、悪魔の笑み。

「楽しかったですわ、陛下。貴方様との、甘いおやつの時間は」

 彼女は、優雅に、最後のカーテシーをした。

「ですが、本当のデザートは、これから。……貴方様が、我らが真の主君の、新たな『心臓』を受け入れる、その瞬間に、いただきに参りますわ」

 その言葉を最後に、シャルロッテの姿は、紫黒の光と共に、跡形もなく、消え去った。

 後に残されたのは、絶対的な沈黙と、裏切られたという、あまりにも苦い現実だけ。

 俺が、ようやく手に入れたはずの、甘い甘いスローライフ。

 それは、最初から、巧妙に仕組まれた、甘き毒だったのだということを、俺は、ようやく、理解した。

 そして、床に落ちていた、食べかけのミルクプリンが、今は、世界で最も、まずそうな食べ物に見えた。

――ここまで読んでいただきありがとうございます!

面白かったら⭐やブクマしてもらえると励みになります!

次回もお楽しみに!



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ