82.器①
「――そして、その人物が、今、貴方が最も信頼し、その側に置いている、人間だとしたら……」
エリスの、エメラルドグリーンの瞳が、俺の後ろ――完璧な微笑みを浮かべたまま、静かに佇む、一人の女性を、まっすぐに射抜いた。
帝国宮廷主席パティシエ、シャルロッテ・フォン・シュタイン。
俺の、信頼する『おやつ大臣』。
医療区画の空気が、凍りついた。
時が、止まったかのような、絶対的な沈黙。
その沈黙を、最初に破ったのは、俺の、あまりにも間の抜けた声だった。
「……は? え、何言ってんの、エリス?」
俺は、振り返って、シャルロッテの顔を見た。彼女は、いつも通り、完璧で、優雅な笑みを浮かべている。
「シャルロッテだぞ? 俺に、毎日、最高のケーキを作ってくれる、あのシャルロッテだぞ? 何かの間違いだろ」
「……管理人。貴様は、まだ、分からないのか」
俺の隣で、エラーラが、静かに、しかし、鞘にかけた手にはっきりと力を込めて、呟いた。
「……私は、最初から、この女が気に食わなかった。その完璧すぎる所作、その隙のない立ち居振る舞い、そして、その瞳の奥に隠した、氷のような冷たさ。……ただの菓子職人のものではない、と」
シャキン、と。
エラーラが、その愛剣を抜き放つ。切っ先は、寸分の狂いもなく、シャルロッテの喉元に向けられていた。
「――答えろ、女狐。貴様、何者だ」
エラーラの、剥き出しの殺気。
だが、シャルロッテは、その完璧な微笑みを、少しも崩さなかった。
彼女は、ゆっくりと、その視線を、エリスへと移す。
「……驚きましたわ。まさか、あのアークの生き残りが、ここまでたどり着いていたとは。そして、私の正体を、ここまで正確に見抜くとは。……方舟の巫女、でしたかしら? 貴女のことは、リーダーからも、聞いておりましたのに」
その言葉は、肯定だった。
あまりにも、あっさりとした、全面的な肯定。
「……シャルロッテ……?」
俺は、信じられない、という顔で、彼女の名前を呼んだ。
「お前、本当に……?」
「『器』……。なんと、下品な呼び方でしょう」
シャルロッテは、心底うんざりしたように、肩をすくめた。
「私は、こう呼ばれたいのですわ。――新たなる神を、その身に宿すために選ばれた、**『聖母』**である、と」
彼女の瞳から、理知的な光が消え、代わりに、あのフードの集団と同じ、狂信的な熱が、燃え盛った。
「――やはり、貴様ッ!」
エラーラが、踏み込もうとした、その瞬間。
玉座の間から、いや、城の全てから、ノアの、今まで聞いたことのない、極めて危険な警告音が鳴り響いた。
《警告。警告。対象:シャルロッテ・フォン・シュタインの生体反応に、致命的な異常を検知》
《対象の体内より、現在、急速に活性化しつつある、敵性『魔術的ウイルス』のパターンを、明確に確認》
《――脅威レベル判定を、カテゴリーSに更新。ただちに、対象の完全拘束プロトコルに移行します》
ノアの宣告と同時に、シャルロッテの足元の床が、幾何学模様の光を放ち始める。
次の瞬間、光の柱が、彼女の体を包み込み、身動き一つ取れない、完璧な光の檻――『時間停止結界』が、形成された。
「……これが、この城の……!」
エラーラが、息を呑む。神の如き力。これならば、いかにシャルロッテが手練れであろうと、逃れることは不可能。
誰もが、そう確信した。
だが、シャルロッテは、その光の檻の中で、笑っていた。
「……素晴らしいですわ、ノア。さすがは、一番艦。ですが……」
彼女は、ゆっくりと、その指先を、光の壁に、そっと触れさせた。
「――そのルールは、もう、古いのです」
ピシリ、と。
光の檻に、一本の亀裂が走った。
シャルロッテの体から、禍々しい、紫黒のオーラが立ち上り、この城の絶対的な法則を、内側から侵食し、破壊していく。
《……なっ!? 結界が、汚染されていきます! ありえません! 私の知らない、未知の干渉プロトコル……!》
ノアの、冷静だった声に、初めて、明確な『動揺』が混じった。
「言ったでしょう? 私は、ただの『器』ではない、と」
シャルロッテの体が、ゆっくりと、宙に浮かび上がる。
彼女の足元に、あのフードの集団が使うものと同じ、空間を歪ませる、転移魔法陣が、禍々しい光を放ち始めた。
「私は、この日のために、この城のルールを、ほんの少しだけ、『上書き』する方法を、学ばせていただいたのですから」
バリンッ!
光の檻が、ガラスのように砕け散る。
シャルロッテは、ゆっくりと、俺の方を振り返った。その顔には、もはや、あの優しいパティシエの面影はなかった。
あるのは、神を弄ぶ、悪魔の笑み。
「楽しかったですわ、陛下。貴方様との、甘いおやつの時間は」
彼女は、優雅に、最後のカーテシーをした。
「ですが、本当のデザートは、これから。……貴方様が、我らが真の主君の、新たな『心臓』を受け入れる、その瞬間に、いただきに参りますわ」
その言葉を最後に、シャルロッテの姿は、紫黒の光と共に、跡形もなく、消え去った。
後に残されたのは、絶対的な沈黙と、裏切られたという、あまりにも苦い現実だけ。
俺が、ようやく手に入れたはずの、甘い甘いスローライフ。
それは、最初から、巧妙に仕組まれた、甘き毒だったのだということを、俺は、ようやく、理解した。
そして、床に落ちていた、食べかけのミルクプリンが、今は、世界で最も、まずそうな食べ物に見えた。
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