大菓子博覧会 ⑩
俺の指先で、ルビーのように輝くゼリー菓子が、蠱惑的な光を放っていた。
鼻腔をくすぐるのは、未知の果実が凝縮された、脳がとろけるような甘い香り。あと一秒。あと一秒で、この至福は、俺の舌の上で現実となる。
だが、その一秒が、永遠よりも遠かった。
《――摂取は、推奨されません》
ノアの、冷徹な警告。そして、その根拠として示された、敵性『魔術的ウイルス』との類似性。
俺の、食欲という名の純粋な欲望と、生命の危機という本能的な恐怖が、脳内で激しい綱引きを始めた。
(……でも、ひょっとしたら、ノアの考えすぎかもしれないだろ?)
俺の心の中の悪魔が囁く。
(類似してるってだけで、毒じゃないかもしれない。こんなに綺麗で、美味しそうなのに。これを逃したら、一生後悔するぞ?)
(いや、待て)
天使が反論する。
(ノアの警告は、絶対だ。あいつは、俺の健康のためなら、チョコレートを漢方薬に変えるような奴だぞ。そのノアが『推奨しない』ってことは、これはもう、食べたら死ぬか、それに近い何かが起きるってことだ)
俺の指先が、ぷるぷると震える。
その、数秒間の葛藤を、地上の権力者たちは、全く別の意味で、固唾を飲んで見守っていた。
【仮設王城 最高司令室】
「……どうした? なぜ、食べんのだ?」
皇帝ゲルハルトは、魔水晶に映し出された俺の姿に、眉をひそめた。
あと一歩。あの菓子を口にさえすれば、我らが仕込んだ、微弱だが確実な『マーキング』の魔術が、あの男の体に刻み込まれるはずだった。そうなれば、彼の居場所、健康状態、魔力の流れ、その全てを、地上から監視することが可能となる。
「まさか……気づいた、というのか? 我らの策に?」
皇帝の隣で、老練な外交官ギュンターが、信じられないといった表情で呟く。
「あれは、いかなる高位の魔術師でも検知できぬはずの、古代の呪術。それを、あの男は、ただ見ただけで……?」
覇王と、その腹心の間に、神の如き存在への、新たな畏怖が生まれた。
【帝都ヴァイス 街角】
「……おお……!」
ひざまずいて祈りを捧げていた枢機卿ヴァレリウスは、その光景に、恍惚とした表情を浮かべていた。
「見よ! 天の主は、地上の俗物が捧げた、甘き毒を、見抜いておられる! あの御方は、我らの祈りに応え、その神聖さをもって、悪魔の誘惑を、退けてくださったのだ!」
彼の、あまりにも都合の良い解釈。
だが、その熱狂は、周囲の信徒たちへと、確かに伝播していく。
「我らの祈りが、届いたのだ!」「偽神は、真の神の前には、無力!」
聖王国の者たちは、自分たちの信仰が、奇跡を起こしたのだと、固く信じて疑わなかった。
そして、俺は、ついに、決断した。
俺は、指先に摘まんでいた、あの美しいゼリー菓子を、まるで忌々しい虫でも払うかのように、ぽいっと、バルコニーの外へと投げ捨てた。
「――もう、帰る!」
俺は、高らかに宣言した。
「なんか、急用ができた! 悪いけど、今日のところは、お開きだ!」
その、あまりにも唐突で、あまりにも一方的な宣言。
俺の言葉に、案内役のハンスは、顔面蒼白で駆け寄ってきた。
「しゅ、主君! いったい、何が……! 我らのもてなしに、何か不手際でも……!?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどさ」
俺は、ハンスの肩をぽん、と叩いた。「菓子は、全部美味かったよ。特に、あのタルトは最高だった。……でも、まあ、色々あんだよ、こっちにも。じゃあな!」
俺は、呆然とする帝国の者たち、そして、祈りのポーズのまま硬直する聖王国の者たちを尻目に、セラフィムたちに護衛されながら、転移ゲートへと向かった。
「おい、管理人! 一体、何があった!」
エラーラが、俺の腕を掴んで問いただす。
「城に戻ったら、話す! とにかく、今は、急ぐんだ!」
俺の、ただならぬ様子に、エラーラも、それ以上は何も言わなかった。
シャルロッテだけが、俺が投げ捨てたゼリー菓子の残骸と、俺の背中を、冷静な、しかし、全てを見通すかのような瞳で、静かに見つめていた。
【天空城アークノア 医療区画】
城に戻った俺は、エラーラとシャルロッテへの説明もそこそこに、一目散に医療区画へと向かった。
ベッドの上で、エリスは、既に体を起こしていた。その顔色は、まだ万全とは言えないが、瞳には、強い意志の光が宿っている。
「管理人様……! よかった、間に合って……!」
「エリス! 緊急の通信って、一体何があったんだ!」
俺が駆け寄ると、エリスは、真剣な眼差しで、俺を見上げた。
「……眠っている間、私の中のコアと、この城のアニマ・コアが、深く同調していました。そのおかげで、思い出したのです。いえ、記録されていたデータを、読み解くことができたのです。……私を襲った、あの敵について」
「何か、分かったのか!?」
「はい。……彼らが使っていた、『魔術的ウイルス』。あれは、ただのアークを破壊するためだけの兵器ではありませんでした」
エリスは、一度、言葉を切り、震える声で、その恐るべき真実を告げた。
「――あれは、『器』を用意するための、儀式だったのです」
「器?」
「ウイルスに感染し、破壊されたアークの動力炉……その残骸は、消滅するわけではありません。彼らの手によって回収され、彼らが『緑色の心臓』と呼ぶ、新たなコアへと、作り変えられるのです。そして、その心臓を、あらかじめ用意した、人間の『器』に埋め込むことで……」
エリスは、続ける。
「――彼らは、我らアークの力を、人の身に宿した、偽りの『管理人』を、人工的に創り出そうとしていたのです」
偽りの、管理人。
その言葉に、俺は、背筋が凍るのを感じた。
「そして……管理人様」
エリスは、最後に、最も緊急性の高い、絶望的な情報を、俺に告げた。
「その、『器』となる人間が、もし、既に、この地上に存在しているとしたら……」
「――そして、その人物が、今、貴方が最も信頼し、その側に置いている、人間だとしたら……」
エリスの、エメラルドグリーンの瞳が、俺の後ろ――完璧な微笑みを浮かべたまま、静かに佇む、一人の女性を、まっすぐに、射抜いていた。
帝国宮廷主席パティシエ、シャルロッテ・フォン・シュタイン。
俺の、信頼する『おやつ大臣』。
彼女は、その視線を受けても、少しも動じなかった。
ただ、その完璧な微笑みを、ほんの少しだけ、深くしただけだった。
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