80.大菓子博覧会⑨
白銀の騎士――セラフィムが、その場にただ存在するだけで、伝説の魔女と聖騎士団の戦意を完全にへし折ってから、数分。
甘味の神殿の前は、奇妙な静寂に包まれていた。
枢機卿ヴァレリウスは、ひざまずいたまま動けない。魔女たちは、気まずそうに距離を取り、ただ状況を静観している。
そして、その全ての元凶である俺は、神殿の最上階、VIP待遇のバルコニーで、何事もなかったかのように、新しいケーキにフォークを伸ばしていた。
「よしよし、静かになったな! やっぱり、おやつは静かな場所で食べないと!」
「……貴様のその、鋼鉄の神経は、一体どうなっているんだ……」
隣で、エラーラが、もはや尊敬の念すら込めて、呆れ果てていた。
彼女には、先ほどセラフィムが放った、あの絶対的な威圧感が、肌を刺すように感じられていた。あれは、ただのゴーレムではない。一体いるだけで、戦場のルールを書き換えてしまう、神話級の存在。それが、今、この男の命令一つで、子供の喧嘩を止めに行かされている。
この男の、そして、この城の底が、エラーラには全く見えなかった。
その頃、祭典の喧騒の中。
二人の魔女は、人混みに紛れながら、静かに言葉を交わしていた。
「……おい、リディア。見たか、今の」
東の魔女テラの声には、いつもの豪快さはなく、純粋な驚愕が滲んでいた。
「ああ。見たさ」
北の魔女リディアは、フルーツ飴をかじるのも忘れ、厳しい表情で呟く。
「あれは、我らが知る、いかなる魔法体系にも属さない。魔力ではない。闘気でもない。もっと、根源的な……『理』そのものを捻じ曲げるかのような力。……あれを、用心棒としてどうにかしろ、と? あの皇帝、法外な報酬で、我らに神殺しでもさせるつもりだったのかね」
「冗談じゃない。あんな化け物、魔王だって裸足で逃げ出すぞ。……皇帝に報告する。これは、我らの契約の範疇を、完全に超えている、と。あとは、せいぜい、高みの見物と洒落込もうじゃないか」
伝説の魔女たちは、この奇妙な狩りから、一歩身を引くことを決めた。これ以上、神々の遊びに、人間が首を突っ込むべきではない、と。
一方、ひざまずかされたままの枢機卿ヴァレリウスもまた、新たな戦略を練っていた。
(……力による排除は、不可能。あの白銀の騎士がいる限り、我らが聖騎士団では、赤子の手をひねるより容易く蹂躙される。ならば――)
彼は、ゆっくりと立ち上がると、打って変わって、慈愛に満ちた、悲しげな表情を浮かべた。
「――おお、天の主よ! 我らの声が、届かぬと申されるか!」
彼は、その場で、再びひざまずき、祈りのポーズを取った。
「我らは、貴方を断罪しに来たのではない! 貴方が、真に我らを導く光なのか、それを見極めに来たのです! どうか、我ら迷える子羊に、その真実をお示しください!」
彼の言葉に、周囲の聖騎士たちも、そして、彼のカリスマに当てられた一部の民衆までもが、その場で祈りを捧げ始めた。
武力による対決から、信仰による『対話』へ。ヴァレリウスは、この祭典の会場を、巨大な祈りの場へと変え、無言の圧力で、俺を地上へと引きずり下ろそうと企んでいた。
「……うわ、なんか始まったぞ。新興宗教か?」
俺は、その異様な光景を、完全に他人事として眺めていた。
その時だった。
案内役のハンスが、恭しく、一つの小さな箱を、俺の前に差し出した。それは、精巧な砂糖細工で作られた、美しい宝石箱だった。
「主君。先ほどの騒乱、大変失礼いたしました。お詫び、というには些少に過ぎますが、こちらを。博覧会の、どの菓子にも勝る、皇帝陛下からの、ささやかな贈り物にございます」
ハンスが、その箱の蓋を開ける。
中には、まるで本物の宝石のように、色とりどりに輝く、数十種類の小さなゼリー菓子が、きらきらと光を放ちながら敷き詰められていた。
『千の味の宝石箱』。
「うおお……! なんだこれ! きれいだ……!」
俺は、完全に、その美しさに心を奪われた。
地上の祈りも、エラーラの呆れ声も、もはや、俺の世界から消え去っていた。
「食べて、いいのか!?」
「もちろんですとも。さあ、どうぞ」
俺は、震える手で、その中から、ルビーのように真っ赤に輝く、一粒のゼリーを摘み上げた。
いよいよ、この未知の至福の瞬間が――。
俺が、その一粒を、口に運ぼうとした、まさに、その刹那。
俺の頭の中にだけ、ノアの、いつもとは違う、極めて緊急性の高い声が、直接響いた。
《――管理人。緊急報告》
(ん? なんだよ、ノア。今、いいところなんだから、後に……)
《緊急です。医療区画より、対象:エリスの意識が、完全に覚醒。貴官との、緊急通信を求めています》
エリスが?
俺の脳裏に、あの銀髪の少女の、助けを求めるような瞳がよぎる。
だが、目の前には、人生最高の輝きを放つ、未知の宝石菓子が。
俺が、その究極の二択に、一瞬だけ、葛藤した、その時。
ノアは、さらに、追い打ちをかけるような、決定的な情報を、俺の頭に叩き込んだ。
《――また、現在、貴官が口にしようとしている、その物品より》
《先日、脱出ポッドから回収した、敵性『魔術的ウイルス』と、極めて類似した、微弱なエネルギーパターンを検知しました》
《――摂取は、推奨されません》
俺の、宝石を摘まんだ指が、ぴたり、と止まった。
目の前には、人生で最も美しく、そして美味しそうな、未知の菓子。
だが、その菓子は、もしかしたら、俺を、この城を、内側から破壊するための、甘い甘い、毒の塊なのかもしれない。
俺は、指先のルビーを握りしめたまま、動けなかった。
地上の権力者たちが仕掛けた、甘き罠。
それは、ついに、獲物の、喉元まで、届こうとしていた。
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