78.大菓子博覧会⑦
意識を取り戻した俺が、涙を流しながら、二口目のタルトの余韻に浸っている。
「……素晴らしい……人生に、悔いはない……」
「まだ死ぬな、この馬鹿者!」
エラーラが、俺の頭を、容赦なくひっぱたく。
その、あまりにもシュールで、あまりにも緊迫した光景を、帝国の、そして聖国の権力者たちは、それぞれの場所から、息を呑んで見つめていた。
【仮設王城 最高司令室】
「……何者だ、今の暗殺者は」
皇帝ゲルハルトの低い声が、司令室に響く。彼の問いに、帝国諜報機関の長官が、顔面蒼白で答えた。
「……不明です。先の聖杯盗難の後、帝都に潜伏していた、連合王国の過激派残党と思われますが……」
「言い訳は聞かぬ!」
ゲルハルトは、玉座の肘掛けを叩きつけた。
「我が仕掛けた、完璧な舞台だぞ! 雑魚どもに、主役の喉笛を掻き切られて、どうする!」
皇帝は、激しく怒っていた。だが、その瞳の奥には、怒りと同居する、冷たい歓喜の色が浮かんでいた。
計画外の襲撃。だが、これは、利用できる。
「……ギュンター」
「はっ」
老練な外交官は、皇帝の意図を、既に正確に読み取っていた。
「今こそ、我らが『誠意』を見せる時ですな」
「うむ。あの愚かなる神に、教えてやるのだ。地上は、危険に満ちている。そして、その危険から彼を守れるのは、この我ら、グラドニア帝国だけである、と」
皇帝は、不気味な笑みを浮かべた。
「ただちに、ハンスに伝えよ。最高の警護を、最高の『もてなし』という名目で、あの男に提供せよ。決して、我らの掌の上から、逃がすでないぞ」
皇帝の罠は、次の段階へと移行した。獲物を追い詰めるのではなく、獲物が自ら、安全な檻の中へと入ってくるように、誘導するのだ。
【帝都ヴァイス 街角】
同じ頃、博覧会の喧騒の中、枢機卿ヴァレリウスもまた、魔法の水晶を通して、その一部始終を見ていた。
「……見ましたか。あれが、あの者たちの力です」
彼の声は、震えていた。興奮と、そして、底知れない恐怖によって。
「ただの菓子職人が、音もなく暗殺者の矢を弾き返す。あの白銀の騎士に至っては、我らが誇る聖騎士団の全力をもってしても、一体、止められるかどうか……」
そして何より、その中心にいる、あの管理人カイン。
自らが命を狙われているというのに、彼は、ただ、菓子の味に涙している。
それは、愚鈍だからではない。
(……あの男、自分が『絶対に死なない』ということを、理解しているのだ……!)
ヴァレリウスは、戦慄と共に、そう結論づけた。
あの男は、自らがこの世界の理の外にいる、超越的な存在であることを、本能的に知っているのだ。だからこそ、何の警戒もせず、ただ、己の欲望のままに振る舞う。
「……もはや、疑う余地はありません」
ヴァレリウスは、傍らの聖騎士に、静かに、しかし、確固たる意志を持って告げた。
「あれは、神ではない。神の如き力を持ちながら、人の欲望に溺れる、『堕ちた神』。あるいは、**『神を騙る悪魔』**そのもの」
「……では、我らは」
「ええ。計画を変更します。帝国が、あの偽神を懐柔しようというのなら、我らは、その欺瞞を、白日の下に晒すまで」
彼は、懐から取り出した『真実の聖盤』を、強く握りしめた。
「――この祭典の場で、あの男の化けの皮を、全ての民の前で、剥がしてくれる」
【甘味の神殿・特別応接室】
「いやー、危なかったなー」
俺は、ようやく三口目のタルトを味わい終え、満腹感と幸福感に包まれながら、他人事のように言った。
エラーラは、もう何も言う気力がないのか、壁に寄りかかって、深いため息をついている。
ムッシュ・ピエールは、「主君の神聖なる食事の時間を、お守りできて光栄の至り」とかなんとか言って、深々と頭を下げていた。
その、あまりにも平和な(俺だけが)空気を破って、先ほどの案内役、ハンスが、血相を変えて部屋に飛び込んってきた。
「主君! ご無事でしたか! まさか、このような不埒者が、この神聖なる祭典に紛れ込んでいたとは……! このハンス、万死に値します!」
彼は、俺の足元にひれ伏し、床に頭をこすりつけて謝罪した。
「ああ、いいっていいって。タルトは無事だったし」
「なんと、慈悲深きお言葉……!」
ハンスは、感涙にむせびながら、顔を上げた。
「つきましては、主君。これ以上の危険に、貴方様を晒すわけにはまいりません。我が皇帝陛下の勅命により、これより、貴方様の警護を、我が帝国近衛騎士団が、責任を持って行わせていただきます! さあ、どうぞ、こちらへ。最も安全で、そして、最も素晴らしい眺めを誇る、貴賓席をご用意いたしました!」
ハンスは、そう言うと、俺を、甘味の神殿の最上階、バルコニーに設置された、豪奢な天蓋付きのソファへと案内した。
そこからは、博覧会の全てが、一望できた。
そして、その周囲を、帝国の誇る近衛騎士団が、寸分の隙もなく、固めている。
「これで、もう安心です。どうぞ、心ゆくまで、この祭典を、そして、我が帝国が誇る、最高の菓子をお楽しみください!」
ハンスは、そう言うと、次から次へと、見たこともないような美しいケーキや、きらきらと輝くゼリーを、俺の前に運ばせた。
「おお……! すごい! VIP待遇ってやつか!」
俺は、すっかり上機嫌だった。
自分が、帝国が用意した、美しく、そして甘い檻の中に、自ら喜んで入ったことなど、全く気づいていなかった。
エラーラだけが、その完璧すぎる警護体制と、ハンスの目に宿る、獲物を捕らえたかのような光に、言い知れぬ不吉さを感じていた。
だが、次々と運ばれてくる極上のスイーツを前に、歓喜の声を上げる愚かな主人を、彼女は、もはや止めることができなかった。
甘い香りに満ちた狩り場で、狩人たちは、獲物が、自ら罠の中心へと歩み寄ったことを、静かに確信していた。
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