77.大菓子博覧会⑥
特別応接室は、甘い香りと、殺伐とした空気が奇妙に混じり合う、異様な空間と化していた。
床には、持ち主を失った黒い矢が散らばり、天井には、矢が放たれたであろう無数の穴が、無粋な模様のように空いている。
その中心で、伝説のパティシエ、ムッシュ・ピエールは、パレットナイフを握ったまま、静かに佇んでいた。その老いた瞳は、もはやただの職人のものではない。自らの聖域を荒らされた、孤高の獣のそれだった。
エラーラは、剣の柄に手をかけたまま、動けないでいた。彼女の本能が、目の前の老人が、下手に動けば自分ですら斬り捨てられかねない、危険な領域にいることを告げていた。
セラフィムたちは、既に矢が放たれた天井裏を完璧に制圧し、数名の暗殺者を『処理』し終えていた。
そして、その、あまりにも緊迫した状況の中心で。
俺は、床の上で、至福の表情を浮かべたまま、完全に意識を失っていた。
「……この、ど阿呆がッ!」
張り詰めた空気を、最初に破ったのは、エラーラの怒声だった。
彼女は、もはや躊躇うことなく、伸びている俺の頬を、思いっきり平手で打ち抜いた。
バチィィィン!
「ぐはっ!?」
脳が揺れるほどの衝撃に、俺は無理やり意識を引き戻された。
「い、痛ってぇ! 何すんだ、エラーラ!」
「貴様は、自分が今、どういう状況に置かれているか、全く分かっておらんのか! 命を狙われたのだぞ! それなのに、菓子を食って気絶している馬鹿がどこにいる!」
「命より美味いタルトだったんだから仕方ないだろ!」
俺は、叩かれた頬を押さえながら、涙目で反論した。
だが、俺の視線は、エラーラではなく、テーブルの上に残された、あの奇跡のタルトへと注がれていた。
そうだ。俺は、まだ、あの一口しか食べていない。
「……」
俺は、むくりと起き上がると、まるで巡礼者が聖地を目指すかのように、ふらふらとテーブルへと歩み寄った。
「おお……! 我がタルトよ! 無事であったか!」
俺は、残されたタルトを、愛おしそうに撫でる。その光景を見て、エラーラは、もはや怒る気力も失せたのか、深すぎるため息をついて、壁に寄りかかった。
「……申し訳ございません、主君」
ムッシュ・ピエールが、いつの間にか、いつもの柔和な職人の顔に戻って、深々と頭を下げた。
「私の菓子が、貴殿を危険な目に……」
「いや! あんたは悪くない! 悪いのは、このタルトが美味すぎることと、俺の脳のキャパが小さすぎることだ!」
俺は、彼の肩を掴んで、力強く言った。
「だから、頼む! もう一口、食べさせてくれ! 今度は、万全のコンディションで、この奇跡と向き合いたい!」
俺の、あまりにも真剣で、あまりにも馬鹿げた懇願。
ピエールは、一瞬、呆気に取られたような顔をしたが、やがて、心底楽しそうに、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「……承知いたしました。それこそが、職人にとって、最高の褒め言葉にございます」
俺は、深呼吸を一つした。
そして、先ほどよりも、さらに慎重に、さらに敬虔な気持ちで、二口目のタルトを、口に運んだ。
再び、脳内で宇宙が爆発する。だが、今度は、耐えた。俺は、この至福の衝撃に、耐えきってみせたのだ。
「……う……おお……」
俺は、椅子に座ったまま、感動のあまり、ただただ、静かに涙を流していた。
【帝都ヴァイス 裏路地・フード集団のアジト】
その頃、シャルロッテは、博覧会の喧騒を離れ、帝都の裏路地に潜む、フード集団のアジトへと、定期連絡のために訪れていた。
重い鉄の扉を開け、薄暗い地下室へと足を踏み入れた彼女は、絶句した。
「…………」
リーダーをはじめ、そこに集うメンバーたちが、全員、奇妙なものを被っていたのだ。
それは、フードではあった。だが、その素材は、布ではない。こんがりと、そして香ばしく焼き上げられた、巨大なクッキーだった。
人型のクッキー、星形のクッキー、中には、チョコチップが練り込まれたものまである。全員が、その甘い香りのする被り物で、真顔で、静かな集会を開いていた。
「……皆さま、少し、頭がおかしくなられたのではなくて?」
シャルロッテの、冷たい声が響く。
リーダー格の男が、ゆっくりと振り返った。そのクッキーのフードには、丁寧にアイシングで顔が描かれている。
「何を言う、シャルロッテ。これは、この『大菓子博覧会』に紛れるための、完璧な変装だ。我らは、もはや、闇に潜むだけの存在ではない。この祭典の、一部と化したのだ」
「……」
シャルロッテは、こめかみを押さえた。
この者たちの狂信は、時折、自分の常識の斜め上をいく。
「……報告します。管理人カインは、帝国の罠に、見事に食いつきました。現在、『甘味の神殿』にて、伝説のパティシエの菓子に夢中です。護衛は、例の白銀の騎士が10体と、剣聖エラーラ。ですが、管理人本人は、完全に無防備です」
「うむ。全て、計画通りだ」
リーダーは、満足げに頷いた。
「……ですが、我々の手勢も、数名、やられました。管理人を狙った、帝国の暗部でしょう。あの城の護衛兵は、やはり、規格外です」
「問題ない。あれらは、ただの駒。捨て石だ。我らの目的は、あくまで、主君の心を、地上へと繋ぎ止めること」
リーダーは、シャルロッテを手招きした。
「見せてやろう、シャルロッテ。我らの計画の、心臓部を」
彼が、部屋の奥にかけられていた分厚い布を取り払うと、そこに、祭壇に安置された、一つの物体が姿を現した。
禍々しく、そして、あまりにも美しい。
それは、エリスの母艦であった『翠のアーク・アルカディア』から抜き取られた、動力炉そのもの。
紫黒の、呪いのような光と、生命そのもののような、鮮やかな緑色の光が、一つの結晶体の中で、せめぎ合うように、ゆっくりと脈動していた。
《緑色の心臓》。
それは、ただの動力源ではなかった。一つの世界を滅ぼし、そして、一つの世界を創り変えるほどの、禁断の果実。
「……なんと、美しい……」
シャルロッテは、その光景に、魅入られたように呟いた。
この組織の真の目的。それは、ただ、管理人カインを地上に降ろすことだけではない。
この『心臓』を、器であるカインに捧げ、彼を、人ならざる、新たな『神』として、この地上に再臨させること。
(……エリクサーなど、この力の前では、塵芥に等しい……)
母親の病を治す、という、彼女を突き動かしていた小さな願い。
それが、今、目の前にある、あまりにも巨大で、あまりにも甘美な、世界の変革という野望の前に、霞んでいくのを、シャルロッテは感じていた。
彼女は、自らが、もう後戻りのできない場所にまで、足を踏み入れてしまったことを、静かに悟るのだった。