76.大菓子博覧会⑤
「――お待たせいたしました、天空の主君」
特別応接室の扉が、静かに開いた。
現れたのは、白髪に豊かな髭をたくわえた、小柄な老人。伝説のパティシエ、ムッシュ・ピエールその人だった。彼の後ろから、銀のワゴンが、まるで意思を持っているかのように、滑らかに部屋へと入ってくる。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
今まで漂っていた、ただ甘いだけの香りではない。焼きたてのバターの香ばしさ、果実の芳醇な香り、そして、どこか神聖さすら感じさせる、筆舌に尽くしがたい香りが、俺たちの鼻腔を優しく、しかし抗いようもなく支配した。
ワゴンにかけられていた純白のシルクが、ゆっくりと取り払われる。
そこに現れたのは、一つのタルトだった。
「…………」
俺は、息を呑んだ。いや、呼吸そのものを、忘れていた。
黄金色に輝く、完璧な円形のタルト生地。その上には、まるで宝石箱をひっくり返したかのように、色とりどりの、見たこともない果実が、寸分の狂いもなく配置されている。果実の一つ一つが、内側から淡い光を放っているように見え、それらを繋ぐように、透明なゼリーが、朝露のようにキラキラと輝いていた。
「――我が最高傑作、『生命の樹(エץ・ハイム)のタルト』にございます」
ムッシュ・ピエールが、静かに告げる。
俺は、まるで神の御前にでもいるかのように、震える手で、差し出された銀のフォークを受け取った。
早く食べたい。だが、この完璧な芸術品を、壊してしまうのが、あまりにも惜しい。
俺の葛藤を見透かしたかのように、ピエールは、優しく微笑んだ。
「菓子は、その最も輝く瞬間に、味わわれてこそ。さあ、どうぞ」
その言葉に、俺は覚悟を決めた。
フォークを、そっと、タルトに入れる。サクッ、という、天上の音楽のような軽やかな音。果実と、カスタードクリームと、タルト生地を、完璧なバランスで一切れ、すくい上げる。
そして、ゆっくりと、その一口を、口に運んだ。
――瞬間、俺の脳内で、宇宙が爆発した。
なんだ、これは。
果実の甘酸っぱさが、舌の上で踊り、芳醇なカスタードが、それを優しく包み込む。そして、香ばしいタルト生地が、全ての味を完璧にまとめ上げ、至福の余韻だけを残して、喉の奥へと消えていく。
脳裏に、走馬灯のように、人生で最も幸せだった記憶が蘇る。追放される前の、まだパーティーの一員として、仲間たちと焚き火を囲んだ、あの夜の温かさ。
これは、ただの菓子ではない。人の魂を、直接、揺さぶる、魔法だ。
「……う……ま……」
俺が、そう一言呟いたのを最後に、俺の意識は、完全にブラックアウトした。
あまりの美味しさの衝撃に、俺の脳のキャパシティは、完全に限界を超えたのだ。
俺は、白目を剥いて、そのまま椅子から、ずるり、と崩れ落ちた。
「……本物の、馬鹿だ、こいつは」
その光景を、部屋の隅で見ていたエラーラが、心底軽蔑した目で呟いた。
美味しいものを食べて気絶するなど、前代未聞。この男の器の小ささは、もはや伝説の域だ。
彼女が、ため息をつきながら、倒れた俺をどうするか考えた、その時だった。
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ!
何の前触れもなかった。
部屋の天井に仕掛けられていた、無数の隠し格子が、音もなく開く。そこから、対魔障壁を貫通する特殊な素材で作られた、黒い矢が、雨のように降り注いだのだ。
その全てが、寸分の狂いもなく、床で無防備に伸びている俺の、心臓へと向かっていた。
「しまっ――!」
エラーラが、剣を抜き放とうとする。だが、あまりにも速い。そして、数が多い。全てを防ぎきるのは、不可能。
セラフィムたちも、即座に俺の盾となるべく動き出したが、それでも、数本は防ぎきれないだろう。
――だが、その矢が、俺の体に届くことは、なかった。
カン! カン! カキンッ!
銀色の閃光が、部屋の中を縦横無尽に駆け巡り、降り注ぐ黒い矢を、全て、完璧に弾き返したのだ。
甲高い金属音と共に、矢が、力なく床に散らばる。
エラーラは、信じられないものを見たかのように、目を見開いていた。
矢を弾いたのは、彼女でも、セラフィムでもない。
いつの間にか、倒れた俺の前に立っていた、小柄な老人――ムッシュ・ピエール。
その手には、剣も、盾もない。ただ、ケーキを切るための、何の変哲もない、一本のパレットナイフだけが、握られていた。
「……」
老いたパティシエは、天井の闇を、静かに、しかし、燃えるような怒りを宿した瞳で、睨みつけていた。
そして、ゆっくりと、静かに、しかし、部屋の隅々まで響き渡る声で、言った。
「――己の菓子を、至福の表情で味わう者の、神聖な時間を邪魔するなど。……無粋の、極みだ」
伝説の職人は、怒っていた。
自らの最高傑作を汚されたことに対してではない。
ただ、その作品を、心から楽しんでいる客人の、安らぎのひとときが、野蛮な暴力によって妨害された。その、一点においてのみ。
エラーラは、戦慄していた。
また一人、この部屋に、規格外の『化け物』がいたことを、彼女は、ようやく理解した。
甘い香りに満ちた応接室は、今、伝説級の職人が放つ、静かな殺気に、満たされていた。
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