75.大菓子博覧会④
大菓子博覧会の喧騒は、まるで巨大な蜂の巣の羽音のように、帝都ヴァイスの中心で鳴り響いていた。綿あめの雲が空を流れ、チョコレートの川が甘い香りを運び、人々は、つかの間の夢に酔いしれていた。
その、雑踏の中を、場違いなほど目立つ二人の女が、屋台のフルーツ飴を片手に、のんびりと歩いていた。
「……それにしても、下品な催しだねえ」
銀髪をなびかせ、冷めた目で周囲を見渡すのは、『北の魔女』リディア。
「砂糖と香料で、民衆の目を眩ませる。あの皇帝らしい、悪趣味なやり方だ」
「まあまあ、そう言うなよ、リディア」
隣で、こんがりと焼かれた肉串を豪快に頬張るのは、『東の魔女』テラだ。
「たまには、こういうのも悪くない。それに、ほら、見てみろ。あの砂糖菓子でできた鳥、なかなか見事な造形じゃないか」
伝説の魔女が二人、なぜ、こんな場所にいるのか。
それは、皇帝ゲルハルトからの、破格の報酬による依頼があったからだ。
『――博覧会の期間中、帝都の『用心棒』となってもらいたい。狙いは、天空城の主。あるいは、それを狙う、何者か。貴殿らには、帝国の騎士団が手出しできぬ、規格外の脅威に対処してもらいたい』
皇帝は、自らの罠に、さらに保険をかけていたのだ。
「それにしても、魔女は皆、お菓子が大好物、なんて俗説を、あの皇帝は本気で信じているのかね。呆れたものだよ」
リディアが、フルーツ飴をかじりながら、心底うんざりしたように言う。
「いいじゃないか、その方が話が早くて。おかげで、最高の報酬にありつけたんだからさ」
「南のあの怠け者は、どうした。来るんじゃなかったのか」
「さあな。『ちょっと昼寝してから行く』と連絡があったきりだ。いつものことさ。あいつが時間通りに来たことなんて、この三百年で一度もない」
テラは、あっけらかんと笑った。
その時だった。
酒で赤ら顔になった、屈強な傭兵風の男たちが、ふらつきながら二人の前に立ちはだかった。
「よぉ、姐さんたち。見かけねえ顔だな。こんなところで二人きりとは、寂しいんじゃねえか? 俺たちと、もっと甘い菓子でも食いに行こうぜ」
下卑た笑みを浮かべ、一人の男が、リディアの肩に、馴れ馴れしく手を伸ばす。
「……触るな、汚らわしい」
リディアの、絶対零度の声。
「ああん? なんだと、このアマ……」
男が、その手を掴もうとした、瞬間。
その腕が、ぴたり、と凍りついたように動かなくなった。
「……な……?」
男は、自分の腕に力が入らないことに、困惑する。
いや、違う。よく見れば、男の腕には、びっしりと、美しい霜の結晶が張り付いていた。腕そのものが、内側から、完全に凍結していたのだ。
「ひっ……!?」
仲間たちが、腰の剣に手をかける。
だが、テラが、肉串の刺さっていた串を、こともなげに、地面に突き立てた。
ドゴゴゴゴゴッ!
男たちの足元の地面が、まるで粘土のように隆起し、巨大な土の腕となって、彼らの体を優しく、しかし抗いようのない力で拘束した。
「……さて。この者たちは、どうする?」
「放っておけ。そのうち、誰かが見つけるだろう」
リディアは、興味を失ったように、再びフルーツ飴へと視線を戻した。
魔女たちは、ただ、菓子巡りをしながら、時折、目に付いた不届き者たちを、こうして静かに懲らしめているだけだった。
【甘味の神殿・特別応接室】
その頃、俺は、博覧会の中心地である、巨大なウェディングケーキを模した建物『甘味の神殿』の一室で、そわそわしながら、その時を待っていた。
「まだかなぁ……。伝説のタルト……」
首を、キリンのように長くして、扉の方を何度も見やる。
部屋には、甘く、香ばしい匂いが満ちており、俺の期待を極限まで高めていた。
「……少しは、落ち着け、管理人」
部屋の隅で、エラーラが、壁に寄りかかりながら、鋭い視線で周囲を警戒していた。彼女だけは、この甘ったるい雰囲気に、全く呑まれていない。
「ここは、敵地のど真ん中だぞ。いつ、何が起きてもおかしくない」
「大丈夫だって。セラフィムたちがいるし」
俺の周囲には、10体の白銀の騎士が、彫像のように微動だにせず、完璧な警護体制を敷いている。これほど安全な場所は、世界中どこを探してもないだろう。
「シャルロッテは、どうしたんだ?」
「『他の職人の方々の技術を、勉強してまいります』だと。まったく、あの女も、食い意地が張っているのか、あるいは……」
エラーラは、何かを言いかけて、口をつぐんだ。彼女は、シャルロッテの本質に、まだ気づいてはいないが、その得体の知れなさを、本能的に警戒していた。
俺が、テーブルの上に置かれていたクッキーに手を伸ばした、その時だった。
俺のすぐ後ろに控えていたセラフィムの一体が、すっ、と、静かに右手を挙げたのだ。まるで、授業中に、先生に質問があります、とでも言うかのように。
「ん? どうした?」
俺が、不思議に思って振り返る。
だが、セラフィムは、何も答えない。ただ、そのスリット状のバイザーを、部屋の壁の一点に向けたまま、微動だにしない。
(なんだろう……?)
俺が首を傾げていると、そのセラフィムは、挙げた右手で、まるで空中に浮かぶ何かを、ゆっくりと、しかし、確実に掴み取るような動作をした。
そして、その握りしめた拳の中で、パキリ、と、何か硬いものが折れる、乾いた音が、微かに響いた。
【甘味の神殿・向かいの鐘楼】
その頃。
鐘楼の最上階で、一人の暗殺者が、絶望に目を見開いていた。
彼は、帝国でも五指に入ると言われる、弓の暗殺者『静かなる死』。
彼の得物は、古代ドワーフの技術で作られた、魔法の弓。そして、彼が今放った矢は、その中でも最高の傑作、『不可視の心臓抜き』。
その矢は、魔力でできており、肉眼では捉えられない。たとえ高位の魔術師がその軌道を読んで掴み取ろうとしても、矢そのものが意思を持ってすり抜けるため、抑えることは不可能。そして、その硬度は、ドラゴンの鱗すら貫くと言われている。折るなど、神でもない限り、絶対に不可能。
その、絶対の自信を持った一撃が。
ターゲットの男に届く寸前、まるで、最初からそこに手があったかのように、いとも容易く、空中で掴み取られた。
そして。
(……折られた……?)
彼と矢との魔力的な繋がりが、ぷつり、と切れた。
自分の最強の切り札が、まるで、乾いた小枝のように、あっさりと折られたのだ。
暗殺者は、信じられないものを見たかのように、震える手で、再び矢をつがえようとした。
だが、その必要はなかった。
彼の目の前、数センチの空間に、先ほど折られたはずの矢の、鏃の部分が、音もなく、浮かんでいた。
そして、それは、彼の眉間に、ゆっくりと、吸い込まれるように、突き刺さった。
「……タルト、まだかなー」
特別応接室で、俺は、何も知らずに、呑気に呟く。
ただ一人、エラーラだけが、先ほどのセラフィムの不可解な動きと、一瞬だけ感じた、殺気の残滓に、眉をひそめていた。
甘い祭典の水面下で、見えざる死闘が、静かに繰り広げられていることを、まだ、誰も知らなかった。
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