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74.大菓子博覧会③

 ウェハースで作られた巨大な門をくぐった瞬間、俺は、完全に理性のタガが外れた。

「うおおおおおおおおおお!」

 それは、もはや歓喜の雄叫びというよりは、野生に還った獣の咆哮に近かった。

 目の前に広がるのは、紛れもない、お菓子の国。

 チョコレートの川が、甘い香りを漂わせながらゆっくりと流れ、その岸辺には、マカロンの敷石が色とりどりに並んでいる。街灯は、ねじくれた巨大なキャンディーケイン。家の壁は、香ばしい匂いのするクッキーでできており、その屋根には、粉砂糖の雪がうっすらと積もっていた。

 子供の頃、夢にまで見た光景。それが、今、現実として、俺の目の前にある。

「すごい! すごいぞ! これは、本物か!?」

 俺は、近くにあったクッキーの壁を、衝動的にひとかじりした。

「うまいッ!」

 口の中に広がる、バターと砂糖の、懐かしくて、そして最高にジャンキーな味。ノアが作る健康志向の瓦煎餅とは、わけが違う。

「おい! 管理人! 貴様、何をしている! はしたないぞ!」

 後ろから、エラーラの怒声が飛んでくるが、もはや俺の耳には届かない。

 俺の周囲では、白銀の騎士――セラフィムたちが、完璧な円陣を形成していた。彼らは、俺が動けば一歩動き、俺が止まればぴたりと止まる。その無機質で、一切の感情を感じさせない動きは、祭りの陽気な雰囲気とはあまりにも不釣り合いで、異様な光景を生み出していた。

 俺に近づこうとする一般客は、セラフィムたちが放つ無言の圧力によって、まるでモーゼの海割りのように、自然と道を開けていく。結果として、俺の周囲には、誰にも邪魔されない、半径5メートルほどの聖域サンクチュアリが生まれていた。

「見てみろ、エラーラ! チョコレートの川だ! 俺、泳いでくる!」

「馬鹿者! 溺れるぞ! いや、その前に服がベトベトになるだろうが!」

 俺が、本気で川に飛び込もうとするのを、エラーラが必死に羽交い締めにして止める。

 その、あまりにも子供じみた俺たちの攻防を、地上の権力者たちは、それぞれの場所から、冷徹な目で見つめていた。

【仮設王城 最高司令室】

「……報告通り。いや、それ以上に、ただの子供ですな」

 老練な外交官ギュンターは、魔水晶に映し出された俺の姿を見て、静かに呟いた。

 皇帝ゲルハルトは、玉座に座ったまま、その光景を無言で見つめている。その表情は、侮蔑とも、安堵とも、あるいは、言い知れぬ恐怖ともつかない、複雑な色を浮かべていた。

「……ギュンター。計画通り、案内人を向かわせろ」

「はっ。最高の『餌』で、釣り上げてご覧にいれましょう」

 エラーラとの不毛な争いを終え、俺が息を切らしていると、博覧会の役人らしき、丁寧な仕立ての服を着た男が、にこやかな笑みを浮かべて近づいてきた。

「――ようこそお越しくださいました、天空の主君。私、この博覧会の案内役を務めさせていただいております、ハンスと申します」

 男は、俺の周囲を取り囲むセラフィムたちの威圧感に、一瞬だけ顔を引きつらせたが、すぐに完璧な営業スマイルを取り戻す。

「もし、よろしければ、主君のためにご用意いたしました、最高の逸品へと、ご案内させていただきたく存じますが、いかがでしょうか?」

「最高の、逸品……?」

 その、悪魔的なまでに魅力的な言葉に、俺の耳はピクリと反応した。

「伝説のパティシエ、ムッシュ・ピエールが、この日のためにだけ作り上げた、至高のタルトが、『甘味の神殿』にて、貴方様をお待ちしております」

「行くッ! 今すぐ行くッ!」

 俺は、二つ返事で食いついた。

 最高の逸品。その言葉の前では、もはや他の全てのお菓子は色褪せて見える。

 俺は、ハンスと名乗った男の案内に従い、『甘味の神殿』――巨大なウェディングケーキを模した、博覧会の中心地へと、勇んで歩き始めた。

 その、道中だった。

 俺たちの前に、純白の法衣に身を包んだ、巡礼者の一団が、まるで壁のように立ちはだかった。

 彼らの中心にいるのは、柔和な笑みを浮かべた、枢機卿ヴァレリウス。

「おお……! 天より来たりし、慈悲深きお方よ……!」

 ヴァレリウスは、まるで長年探し求めた救世主にでも出会ったかのように、感極まった様子で、俺の前にひざまずいた。

「どうか、我ら迷える子羊に、女神の祝福を賜りますよう、その御手に触れる栄誉を、お与えください……!」

 彼は、そう言うと、震える手で、俺の足元に触れようと、ゆっくりと手を伸ばしてきた。

 その、恭しい仕草で隠された手のひらの中には、聖王国の至宝、『真実の聖盤』が、鈍い銀色の輝きを放っていた。

 その手が、俺に触れる、寸前だった。

 ――スッ。

 音は、なかった。

 ただ、ヴァレリウスと俺との間に、一枚の、白銀の壁が出現していた。

 セラフィムの一体が、いつの間にか、そこに立っていたのだ。その動きは、あまりにも滑らかで、あまりにも速く、誰一人として、その移動を認識できなかった。

「……なっ」

 ヴァレリウスの柔和な笑みが、凍りつく。

 白銀の騎士は、何も語らない。ただ、そのスリット状のバイザーの奥から、絶対零度の視線で、聖職者を見下ろしているだけ。

「何者だ、貴様ら!」

 エラーラも、即座に剣の柄に手をかけ、鋭い声を上げる。

 案内役のハンスも、顔面蒼白だ。

 一触即発。甘い香りに満ちた祭典の会場で、剥き出しの敵意と、人ならざる威圧感が、激しく衝突した。

 その、張り詰めた空気を、完全にぶち壊したのは、俺の、間の抜けた一言だった。

「あ、ごめんごめん! ちょっと、通してくれる?」

 俺は、その一触即発の状況を、全く意に介さず、ひょいとセラフィムの脇をすり抜けた。

「俺、今、すっごい急いでるからさ! 最高のタルトが、俺を待ってるんだ! じゃあな!」

 俺は、呆然とするヴァレリウスの一団の横を、駆け足で通り過ぎていく。

 セラフィムたちも、ヴァレリウスを一瞥した後、主人の後を追うべく、完璧な陣形を組み直して、何事もなかったかのように移動を開始した。

 後に残されたのは、ひざまずいたまま、硬直するヴァレリウスと、その護衛たちだけだった。

「……枢機卿様……」

「……」

 ヴァレリウスは、震える手で、『真実の聖盤』を握りしめた。

 聖盤は、何の反応も示さなかった。

 だが、彼は、確信していた。

(……あれは……ただの人間、ではない……。だが、聖盤が反応せぬということは、悪魔でも、魔性のものでもない……? 一体、何なのだ。あの男は。そして、あの白銀の騎士は……)

 彼の呟きは、祭典の喧騒の中に、虚しく消えていった。

 一方、俺は、何も知らず、何も気づかず、ただひたすらに、帝国が仕掛けた、最も甘く、そして最も危険な罠の中心へと、自ら勇んで飛び込んでいくのだった。

――ここまで読んでいただきありがとうございます!

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次回もお楽しみに!



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