71.聖国の来訪
帝都ヴァイスは、静かな熱病に浮かされていた。
竜と英雄の激闘によって、帝国の象徴であった王城は完全に崩壊した。民衆は、瓦礫の山と化したその残骸を、呆然と、あるいは祈るように見つめている。覇王の絶対的な権威は、目に見える形で傷ついていた。
ファルケン将軍の反乱、帝都でのテロ、そして王城の崩壊。度重なる災厄に、民の心は疲弊しきっていた。彼らが今求めているのは、力強い指導者による支配ではなく、絶対的な『救済』だった。
sんな帝都に、新たな波紋を広げる者たちが、静かにやってきた。
聖王国アークライトからの使節団。
彼らは、軍隊を伴わず、たった十数人の聖職者と、その護衛である数名の聖騎士だけで、帝都の門をくぐった。だが、その一行が放つ存在感は、千の軍勢にも勝る、異質な威圧感をまとっていた。
純白の法衣に身を包んだ彼らは、瓦礫の撤去作業に追われる帝都の民に、慈悲深い微笑みと共に、癒やしの魔法と食料を分け与える。その姿は、民の目には、まさに女神の使いそのもののように映った。
「ありがたや、聖王国様……」
「我らをお救いくださるのは、皇帝陛下ではなく、教皇猊下なのかもしれぬ……」
民衆の間に、静かに、しかし確実に、新たな信仰の種が蒔かれていく。
仮設王城の一室。
帝国の老練な外交官ギュンター・フォン・クラウゼヴィッツは、ガラス窓の向こうで繰り広げられる光景を、苦々しい表情で見つめていた。
「……見事な手腕だ。剣を抜かずして、民の心をここまで掌握するとはな」
彼の前に座るのは、聖王国の使節団を率いる男、枢機卿ヴァレリウス。年の頃は四十代。柔和な笑みを浮かべているが、その瞳の奥には、剃刀のような鋭い知性が宿っている。彼こそが、教皇が放った『聖務執行官』だった。
「お褒めに与り、光栄ですな、クラウゼヴィッツ卿」
ヴァレリウスは、優雅な仕草で紅茶を一口啜る。
「我らは、ただ、女神の教えに従い、苦しめる隣人に、手を差し伸べているだけにございます。それこそが、我ら聖職者の務め」
「その『務め』とやらを果たすために、わざわざ帝国の心臓部までお越しになられた、と?」
ギュンターの皮肉にも、ヴァレリウスは表情一つ変えない。
「もちろん、それだけではございません。我らは、先日この地で起きた『奇跡』……死者の軍団を浄化したという、聖なる光の真相を、調査するために参りました。そして、同時に、あの空に浮かぶ『天の異端』が、我らの世界に、今後どのような影響を及ぼすのかを、見極める必要がございます」
ヴァレリウスは、天空城を、明確に『異端』と断じた。
「我ら聖王国は、あの冒涜的な塔の存在を、決して看過するわけにはまいりません。つきましては、帝国が先日、あの城と結ばれたという、条約の詳細をお聞かせ願えませんかな? 神ならぬ偽りの神と、どのような契約を交わされたのか、我らも知る権利がございますので」
それこそが、聖王国の狙いだった。
天空城を『宗教的な脅威』と位置づけることで、帝国の主権を飛び越え、大陸全体の安全保障という名目の下に、その問題に介入する権利を主張する。
ギュンターは、静かに、そしてはっきりと答えた。
「天空城アークノアは、我が帝国が、その独立と主権を認めた、対等な国家。彼らとの間に結ばれた不可侵条約は、二国間の問題であり、第三国に開示すべき性質のものではございません」
これは、政治問題だ。宗教問題ではない。ギュンターは、その一線で、断固として聖王国の介入を拒絶した。
その答えに、ヴァレリウスは、初めて、その柔和な笑みを消した。
「……国家、ですと? クラウゼヴィッツ卿。貴方ほどの御方が、本気でそうお思いか? 我らが掴んでいる情報によれば、あの城の主は、政治も、外交も、何も知らぬ、ただの子供同然の男。そのような存在と結んだ条約に、いかなる神聖さがありましょうか」
「……」
「あるいは、貴方がた帝国は、あの『異端』の力を恐れるあまり、その軍門に下ったのですかな? 覇道をもって大陸の統一を目指したはずの帝国が、今や、神を騙る偽者の、属国に成り下がった、と?」
それは、あまりにも侮辱的な、しかし、的確に帝国の痛いところを突く挑発だった。
だが、ギュンターは、動じない。
「属国ではございません。隣人です。我々は、我々のやり方で、あの予測不能な隣人との、共存の道を探っております。それは、我ら帝国の問題。聖王国が、神の御名において、口を挟むべきことではございません」
睨み合い。
政治の論理と、信仰の論理。決して交わることのない、二つの正義が、静かな部屋で、激しく火花を散らす。
やがて、ヴァレリウスは、すっと立ち上がった。
「……よろしいでしょう。貴方がた帝国の考え、よくわかりました。ならば、我らは、我らのやり方で、女神の正義を執行するまで」
その言葉は、宣戦布告にも等しい響きを持っていた。
その夜、皇帝ゲルハルトは、ギュンターからの報告を受け、玉座で深いため息をついた。
「……あの聖職者どもめ。剣ではなく、祈りと施しで、この帝国を内側から切り崩すつもりか。ファルケンよりも、西の魔女よりも、遥かに厄介な敵よ」
帝国は、新たな、そして、最もたちの悪い敵を、正面から抱え込むことになったのだ。
【天空城アークノア 厨房】
その頃、俺は、シャルロッテの隣で、真剣な顔をして、プリンのカラメルソースを混ぜていた。
「なあ、シャルロッテ。このカラメル、もうちょっとだけ、苦くした方が、大人の味になるんじゃないか?」
「まあ、陛下。なんと的確なご意見ですこと。さすがは、神の舌をお持ちですわ」
「えへへ、そうかな?」
地上の二大国家が、俺の存在を巡って、一触即発の睨み合いを続けていることなど、全く、これっぽっちも、知る由もなかった。
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