70.聖国
大陸の西に位置する、聖王国アークライト。
その国土は、白亜の城壁と、敬虔な祈りによって守られている。帝国のような覇道でも、旧連合王国のような融和でもない、ただひたすらに、光の女神を崇める信仰によって統べられた、神聖不可侵の国家。
帝都ヴァイスが、勝利と混乱の熱に浮かされている頃、聖王国の首都サンクトゥスでは、荘厳な鐘の音が鳴り響いていた。
大陸で最も美しいとされる、大聖堂サンクト・アリア。その巨大なバルコニーに、純白の法衣に身を包んだ、聖王国の最高指導者、教皇ベネディクトゥス三世が姿を現した。
「――聞け、光の子らよ!」
魔法で拡張された、厳かで、しかし力強い声が、広場を埋め尽くした数十万の信徒へと降り注ぐ。
「東の地を覆っていた、死者の軍団という穢れは、我らの祈りによって、女神の御光が浄化された! これぞ、信仰の勝利である!」
うおおおおお、と、地鳴りのような歓声が上がる。
帝国からの救援要請があったこと、そして、その脅威が、彼らが動く前に『謎の光』によって消滅したこと。聖王国は、その全てを、自らの祈りがもたらした『奇跡』として、大々的に喧伝していた。
「だが、子らよ! 穢れは去ったが、我らの空には、今も、神を騙る、不遜なる『異端』が浮かんでいる!」
教皇が、天を指差す。
信徒たちの視線が、遥か上空、肉眼では点にしか見えない、天空城アークノアへと注がれた。
「地は人のもの、天は神のもの! その理を乱す、空飛ぶ城は、女神の御心に反する、冒涜の塔に他ならない! 我ら聖王国は、この『天の異端』を、決して看過せぬことを、ここに誓う!」
再び、熱狂的な歓声が、首都サンクトゥスを揺るがした。
その夜。大聖堂の最奥、教皇の私室。
ベネディクトゥス三世は、昼間の慈愛に満ちた表情を消し去り、冷徹な統治者の顔で、側近である枢機卿たちと向き合っていた。
「……それで、あの『奇跡』の真相は、掴めたのか」
教皇の問いに、情報分析を司る老枢機卿が、静かに首を横に振った。
「いえ。あまりにも大規模、かつ高位の聖魔法です。我らが誇る聖騎士団の全力をもってしても、再現は不可能。……そして、そのエネルギー波長は、皮肉なことに、我らの女神の御光よりも、あの『天空城』から、ほんの一瞬だけ放たれた謎の光の方に、酷似している、と……」
「……」
教皇は、目を閉じた。
彼も、分かっていた。あの奇跡が、自分たちの手によるものではないことなど。
だが、真実がどうであれ、それをどう『解釈』し、民を導くかが、統治者の役目だ。
「問題は、そこではない」
教皇は、ゆっくりと目を開けた。
「帝国は、勝利した。だが、その代償は大きい。内乱、経済の疲弊、そして、象徴たる王城の喪失。民は、覇王の力に、疑念を抱き始めている。彼らは、今、剣による支配ではなく、真の『救済』を求めているのだ」
その言葉に、枢機卿たちが、はっとした顔で教皇を見る。
「……今こそ、我らが、女神の教えを、大陸全土に広める時。帝国の弱体化は、我らにとって、またとない好機なのだ」
「しかし、教皇猊下。そのためには、あの天空城という、あまりにも不確定な存在が、邪魔になりましょう」
「うむ。だからこそ、まずは、あの『天の異端』を、徹底的に調査せねばならん」
教皇は、傍らに控えていた、純白の鎧に身を包んだ、聖騎士団の総長に、静かに命じた。
「――『聖務執行官』を、帝都へ送れ」
聖務執行官。それは、聖王国の影の刃。異端者を裁き、神の敵を密やかに抹殺することを任務とする、教皇直属の諜報部隊。
「まずは、帝国に潜入し、あの城に関する、あらゆる情報を収集せよ。あの城の主が、本当に神の使徒なのか、あるいは、悪魔の化身なのか。この目で、見極める必要がある」
「もし、悪魔であった場合は?」
聖騎士団長の問いに、教皇は、聖職者とは思えぬ、冷たい笑みを浮かべた。
「――悪魔ならば、狩るまでだ。神に成り代わろうとする、不遜なる偽者を、我らの手で、天から引きずり下ろしてくれる」
帝国とも、フードの集団とも違う、第三の勢力。
『正義』と『信仰』という、最も厄介な大義名分を掲げた彼らもまた、天空の主に、その牙を剥こうとしていた。
だが、その頃、天空城の主は、そんな地上のきな臭い動きなど全く知らず、「そろそろ、新しい味のプリンが食べたい」と、シャルロッテに駄々をこねていた。
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