69.天体観測
「――観測ユニット、設置完了。オンラインに移行します」
ノアの冷静な声と共に、玉座の間の巨大なホログラムモニターの表示が、がらりと変わった。
そこに映し出されたのは、雲一つない青空から、地上を見下ろした、あまりにも鮮明な映像。それは、神の視点そのものだった。
「おお……!」
俺は、感嘆の声を上げた。最高の暇つぶしが、ついに始まったのだ。こうなると、何かスナックが欲しくなるのが人情というものだ。
「なあノア、ポップコーン頼む。今度こそ、ちゃんとジャンキーなやつだぞ。塩とバター、忘れるなよ!」
《承知しました》
数秒後、俺の手元に、湯気の立つポップコーンが満載のボウルが生成された。見た目は、完璧だ。バターの香りもする。
俺は、期待に胸を膨らませて、その一粒を口に放り込んだ。
「…………」
味がない。
いや、違う。正確には、味はある。茹でた豆と、栄養補助用の酵母と、ほんのわずかな岩塩の味がする。バターの香りは、香料だけで再現された、虚しい幻だった。
「……これ、味付けした発泡スチロールか?」
《管理人様の健康を考慮し、塩分は規定値の5%に抑制。脂質はゼロです。ご安心してお召し上がりください》
「安心できるか!」
俺が、またしても始まった不毛な食料闘争に絶望していると、モニターの映像が、俺の指示通り、帝国の首都へとズームしていく。復興作業でごった返す帝都ヴァイスの街並みが、くっきりと映し出された。
人々の顔、服装、その表情の一つ一つまで、まるで目の前にいるかのように、手に取るように分かる。
「すげえ……!」
俺は、ポップコーンの味のしなさに悪態をつきながらも、その圧倒的な性能に、興奮を隠せなかった。
「もっと寄れるか!? あの半壊した城の中!」
《可能です》
映像は、仮設王城の一室へと、壁を透過するように侵入していく。そこでは、皇帝ゲルハルトが、難しい顔で地図を睨みつけ、頭を抱えていた。
「あ、こいつ、また腰押さえてるぞ。クセになってるな」
「……管理人。貴様は、少し、不謹慎というものを覚えた方がいい」
俺の隣で、エラーラが心底呆れたように呟いた。彼女の表情には、呆れだけでなく、この神の如き観測能力に対する、言い知れぬ恐怖と嫌悪が浮かんでいる。
「これは、もはやただの偵察ではない。人の営みを、尊厳を、一方的に覗き見る、冒涜的な行為だぞ」
「いいじゃん、別に。減るもんじゃないし」
俺の、あまりにも軽い返事。
そのやり取りを、俺の後ろに控えるシャルロッテは、完璧な微笑みの下に、背筋が凍るのを感じていた。
(……これが、この城の観測能力。帝国の、どんな諜報網も、この『神の目』の前では、無力……! 私の通信も、全て……)
彼女の脳裏に、自らの二重スパイとしての活動が、全て筒抜けになっているのではないかという、最悪の可能性がよぎる。だが、カインの、あまりにも無邪気で、悪意のない様子を見ていると、それも杞憂のようにも思えた。
いや、だからこそ、恐ろしい。この男は、悪意なく、気まぐれに、世界の全ての秘密を暴きかねないのだ。
「皇帝はもういいや。なんか、他に面白いことやってないのか?」
俺は、テレビのチャンネルを変えるような気軽さで、ノアに命令した。
《……了解。観測対象をランダムに切り替えます》
モニターの映像が、次々と切り替わっていく。
聖王国アークライトの壮麗な大聖堂。アンデッドの脅威が去った今、彼らは帝国への救援派遣を中止し、何事もなかったかのように、静かな祈りの日常に戻っていた。
ファルケン将軍が反乱を起こした、北部の渓谷地帯。そこでは、帝国軍が後始末に追われ、アンデッドによって汚された大地を浄化していた。
旧連合王国の、今は帝国の支配下にある街々。そこでは、帝国の圧政に、人々が息を潜めて暮らしていた。
「……なんか、地味だな」
俺は、味のないポップコーンを咀嚼しながら、不満げに言った。
「もっとこう、ドカーン!とか、バーン!とか、ないのかよ。せっかくの特等席なのに、これじゃ退屈だ」
俺の、あまりにも不謹慎な感想に、エラーラはこめかみを押さえ、シャルロッテは完璧な笑顔のまま、冷や汗を流していた。
そして、俺が「もういいや、昼寝しよ」と、この神の遊びに飽きかけた、その時だった。
《――管理人》
ノアの、平坦な声が、玉座の間に響いた。
《帝都ヴァイスの、第7区画、裏路地にて。原因不明の、極めて微弱な魔力反応を、一瞬だけ検知しました》
「……ん?」
《現在は、完全に消失しています。エネルギーパターンは、既知のいかなるものとも一致しません。記録として、ログに残しておきます》
それは、あまりにも些細な、取るに足らない報告だった。
俺は、「ふーん」と気のない返事をすると、大きく伸びをして、玉座の上で寝る体勢に入った。
だが、その一瞬のノイズこそが、水面下で静かに進行している、次なる混沌の、ほんの小さな兆候であることを、まだ誰も、気づいてはいなかった。
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