66.お菓子Time
帝都ヴァイスは、巨大な工事現場と化していた。
ドラゴンの死骸が突き刺さり、完全に崩壊した王城の残骸。その巨大な瓦礫の山を、数千、数万の労働者たちが、昼夜を問わず撤去し続けている。槌音と、号令と、人々の疲弊した声。それは、戦勝祝賀の熱狂が、いかに脆く、虚しいものであったかを物語っていた。
皇帝ゲルハルトは、仮設王城の一室で、その光景を、無感動な目で見下ろしていた。
彼の前には、隠居から無理やり引き戻された老練な外交官、ギュンター・フォン・クラウゼヴィッツが、重い口調で報告を続けている。
「――以上が、現状にございます。旧連合王国領では、未だ散発的な抵抗が続いており、治安の維持に、想定以上の兵力と予算を割かれております。民の不満も、日増しに……」
「……分かっておる」
ゲルハルトは、ギュンターの言葉を遮った。
「して、もう一つの件は、どうだ。あの忌々しいフードの集団……『沈黙の福音』とやら、尻尾は掴めたのか」
ギュンターは、静かに首を横に振った。
「……いえ。帝都でのテロの後、まるで煙のように、大陸全土からその痕跡を消しております。まるで、彼らの目的――大陸を混乱に陥れるという目的が、達成されたとでも言うかのように。あるいは、次なる計画のため、地下深くに潜伏したか……。いずれにせよ、今、彼らを追う術はございません」
外には、未だ服従せぬ被征服民。
内には、姿を見せぬ、真の敵。
そして、何よりも――。
「……天空城からの、連絡は」
ゲルハルトが、最も忌々しい名を口にする。
「はい。宮廷パティシエ、シャルロッテからの定期連絡によりますと、管理人カインは、今も変わらず、城の中で平和な日常を謳歌している、とのこと。先日、新たに漂着したという、謎の少女の看病に、少しだけ興味を示しているようですが……それ以外は、もっぱら、シャルロッテが作る菓子のことしか、頭にない、と」
ギュンターが差し出した報告書には、シャルロッテが解読した、天空城の技術の一端(あくまで彼女が理解できた範囲の、初歩的なものだが)に関する記述もあった。だが、それは、焼け石に水。あの城の力の根源には、到底たどり着けそうになかった。
「……そうか」
ゲルハルトは、玉座に深く身を沈め、目を閉じた。
帝国は、今、三つの巨大な敵と、同時に向かい合っている。
だが、その全てが、あまりにも厄介だった。
旧連合王国の残党を力でねじ伏せれば、帝国はさらに疲弊し、民の不満は爆発するだろう。
姿なき『沈黙の福音』を追いかければ、彼らが仕掛けた新たな罠に、嵌められるやもしれん。
そして、天空城に手を出せば、今度こそ、帝国は地図の上から消え去る。
八方塞がり。
まさに、その言葉が、今の帝国を的確に表していた。
しばらく、重い沈黙が、執務室を支配する。
やがて、ゲルハルトは、ゆっくりと目を開けた。
その瞳には、もはや焦燥も、怒りもなかった。ただ、氷のように冷たく、そして、底なしに深い、覇王としての覚悟だけが、宿っていた。
「……ギュンターよ」
「はっ」
「我らは、戦う相手を、間違えていたのかもしれぬな」
「……と、申しますと?」
「残党も、フードも、確かに帝国の脅威だ。だが、奴らは、あくまで『人間』の範疇よ。剣も、魔法も、そして謀略も通じる。だが、天上のあれは、違う。あれは、天災だ。人の理が及ばぬ、神の気まぐれだ」
皇帝は、立ち上がると、窓辺に立ち、空を見上げた。
憎むべき、しかし、今は手出しのできぬ、天空の城。
「天災とは、戦うものではない。受け入れ、いなし、そして、利用するものだ」
「……陛下?」
「あの城の主、カイン。奴の弱点は、分かっている。シャルロッテの報告が、それを証明している。……『菓子』だ。あの男は、美味い菓子の前では、赤子同然になる」
ゲルハルトは、振り返ると、ギュンターに、信じがたい命令を下した。
「――帝都の、復興計画を変更する」
「なっ……!?」
「王城の再建など、後回しでよい。それよりも、最優先で、帝都の中央広場に、世界一、いや、神々の歴史上、最も壮麗で、最も美味なる、『大菓子博覧会』を開催するための、祭典会場を建設せよ!」
「……は……はく、らんかい……ですと?」
ギュンターは、自らの耳を疑った。国が、存亡の危機にあるこの時に、お菓子の祭りだと?
「そうだ。帝国中の、いや、大陸中の菓子職人を、金に糸目をつけず集めろ。見たこともないような砂糖菓子で城を建て、チョコレートの川を流し、ケーキの山を築くのだ。そして、その祭典の噂を、あらゆる手段を使って、天上の、あの愚かなる神の耳へと届かせろ」
それは、あまりにも突拍子もない、狂気の計画。
だが、その狂気の奥に、ゲルハルトの、恐るべき狙いが隠されていた。
もし、あの食い意地の張った管理人が、地上の甘い誘惑に耐えきれず、ほんの少しでも、あの安全な城から、地上へと降りてきたとしたら。
その時こそ、神を、人の領域へと引きずり下ろす、絶好の機会となる。
「……御意に」
ギュンターは、皇帝の真意を悟り、深く、深く、頭を垂れた。
甘いものが、大嫌いな皇帝が、仕掛ける、甘い甘い罠。
帝国の新たな戦いは、もはや、戦場ではなかった。
それは、神の食欲を誘い、その喉元に、毒の刃を突き立てるための、巨大な調理台の上で、静かに始まろうとしていた。
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