60.菓子の裏側
天空城アークノアの厨房。
シャルロッテ・フォン・シュタインは、完璧な手つきで、飴細工の薔薇を仕上げていた。ガラスのように繊細な花びらが、彼女の指先で命を吹き込まれていく。それは、明日、あの無邪気な王様が食べるケーキの上に飾られる、ただの砂糖菓子。
彼女がその指で、最初に言葉よりも早く覚えたのは、ナイフの握り方だった。
【過去】
彼女が生まれたのは、光の当たらない、影の世界。
物心ついた時には、母親の温もりではなく、冷たい鉄の感触だけが、彼女の世界の全てだった。
彼女が所属していたのは、歴史の裏側で暗躍する暗殺者集団『沈黙の庭園』。シャルロッテは、その庭園で、最も美しく、そして最も毒のある花として育てられた。
彼女のナイフ術は、天才的だった。
音もなく標的の背後に忍び寄り、その喉を掻き切る様は、まるで死神の舞踏。組織の中でも、次代を担う最高傑作として、その将来を有望視されていた。
だが、彼女の中に眠っていた本当の才能は、血の匂いとは無縁の、あまりにも甘いものだった。
お菓子作り。
それは、任務で潜入した貴族の屋敷で、偶然目にした一冊のレシピ本がきっかけだった。文字を覚えるよりも先に、急所の位置を叩き込まれた彼女が、初めて知った、創造の喜び。
最初は、ただの気まぐれだった。だが、彼女が作るお菓子は、食べた者の魂を虜にする、悪魔的なまでの魅力を持っていた。
組織は、最初、その才能を「無用なもの」と切り捨てた。
だが、ある任務が、全てを変えた。
標的は、美食家として知られる、敵国の好色な老公爵。シャルロッテは、毒を盛ったバースデーケーキを、侍女として献上した。
公爵は、一口食べた瞬間、涙を流した。
「……うまい……」
そして、フォークが止まらなくなる。侍医が、ケーキに遅効性の猛毒が盛られていることに気づき、絶叫するのも聞かずに、彼は貪り食らった。
「構わん! この一口のために、私は生まれてきたのかもしれん……! このケーキを食べ終えるまでは、死んでも死にきれるものか!」
死の恐怖よりも、至高の美味が勝った瞬間。
その報告を受けた組織の長は、戦慄し、そして、歓喜した。これほど強力な武器はない、と。
シャルロッテの任務は、暗殺から、懐柔へと変わった。
帝国に潜入し、宮廷パティシエとしての地位を確立する。貴族たちの胃袋を掴み、その舌を、心を、支配する。それは、刃で命を奪うよりも、遥かに困難で、そして効果的な支配だった。
なぜ、彼女は、そこまでして組織に尽くしたのか。
それは、彼女の唯一の肉親――病に倒れ、組織の息のかかった療養所で、かろうじて命を繋いでいる、母親の存在があったからだ。
組織は、シャルロッテを支配するための、完璧な枷を持っていた。
「お前の母親の病は、不治の病だ。だが、一つだけ、治す方法がある」
組織の長は、幼いシャルロッテに、そう囁いた。
「幻の霊薬、『エリクサー』。それさえ手に入れれば、どんな病も癒えるという。我らのために働き、忠誠を尽くせば、いつか、それをお前に与えてやろう」
それは、決して叶わぬかもしれない、しかし、決して諦めることのできない、希望という名の呪いだった。
【現在】
シャルロッテは、完成した飴細工の薔薇を、静かに皿の上に置いた。
今は、愚鈍な管理人のために、菓子を作っている。
帝国のためでも、組織のためでもない。ただ、この城の主の機嫌を取るために。
だが、それでいい。この城には、彼女が求める『何か』がある。帝国の技術を遥かに超えた、神の領域の力。もしかしたら、エリクサーすら、この城ならば……。
彼女は、今や、帝国よりも、そして育ててくれた組織よりも、この天空城そのものに、強い興味を抱き始めていた。
【??? 地下神殿】
フードの集団のリーダーは、祭壇の水晶が放つ、天空城の穏やかな光を、満足げに見つめていた。
彼の脳裏には、駒として送り込んだ少女――シャルロッテの姿が浮かんでいる。
(よくやっている、シャルロッテ。貴様の甘き毒は、確実に、神の心を解かし始めている)
彼は、彼女の母親のことも、エリクサーという嘘も、全てを知っている。全ては、彼女を完璧な人形として動かすための、ただの仕掛けに過ぎない。
リーダーは、祭壇に背を向け、神殿のさらに奥深くへと歩を進めた。
そこに鎮座していたのは、見るもおぞましい、巨大な機械だった。
盗み出した帝国の聖杯が、その中央に組み込まれ、そこから無数の管が伸びている。管の中を、脈打つように流れているのは、禍々しい紫黒の液体。
そして、その機械の終着点――巨大な水晶の容器の中で、ゆっくりと抽出され、凝縮されていたのは、鮮やかな、生命そのもののような緑色のエネルギーだった。
「……もう少しだ」
リーダーは、その緑色の輝きに、恍惚とした表情を浮かべる。
「もう少しで、『心臓』は完成する」
シャルロッテが、神の心を解かす、甘き毒ならば。
この緑色のエネルギーは、神の器を、地上に縛り付けるための、楔。
彼の見据える先にあるのは、ただの降臨ではない。
神を、地上に引きずり下ろし、その肉体と魂を、完全に支配すること。
地上の誰も、そして、天空城の誰も、その恐るべき計画の真の姿を、まだ知らない。
第二章の幕は、静かに、そして、不気味な緑色の光と共に、下ろされた。
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これにて第2章は終わりとなります!よく分からない章でしたがあくまで第2章は土台なのです!
次回もお楽しみに!