57.招待状④
目の前には、見た目だけは完璧なチョコレートケーキ。
俺は、期待と絶望が入り混じった複雑な心境で、銀のフォークをその一切れに突き立てた。どうせ、また苦いのだろう。俺の舌は、もはやノアの健康志向によって、苦味成分のソムリエにでもなれそうなほど鍛え上げられている。
ゆっくりと、その一口を口に運ぶ。
そして、俺は、驚愕に目を見開いた。
「…………」
苦くない。
あの、脳を直接殴りつけてくるような、薬草の暴力的な苦味が、全くしない。
かといって、甘いわけでもない。砂糖の、あの脳がとろけるような甘美な感覚はない。
舌の上に広がるのは、カカオ本来の、深く、そして豊かな香り。そして、それを引き立てる、ほんのりとした、果物か何かのような、自然で優しい甘み。豆腐もどきのクリームは、信じられないほど滑らかで、コクのある味わいに変化していた。
「……うまい」
思わず、本音が漏れた。
俺が求めていたジャンキーな甘さとは違う。だが、これは、間違いなく、人生で食べたどんなケーキよりも、洗練されていて、そして、美味しい。
「お口に合いましたでしょうか、管理人様」
シャルロッテが、完璧な笑みを浮かべて、静かに尋ねる。
「……ああ! ああ、美味い! 苦くない! 最高だ!」
俺は、子供のようにはしゃぎながら、夢中でケーキを頬張った。
ノアが用意した、あの絶望的な健康素材だけを使って、どうすればこんな奇跡のような味が生み出せるのか。目の前の女性は、間違いなく天才だった。
「よし! 君を、本日付で、この城の『おやつ大臣』に任命する!」
俺の、あまりにも安直な任命に、シャルロッテは、一瞬だけ、銀縁の眼鏡の奥の瞳をきょとんとさせた。だが、すぐに完璧な淑女の笑みに戻る。
「……光栄ですわ、陛下。このシャルロッテ、命に代えましても、陛下のおやつライフを、より豊かにしてみせます」
(……陛下? まあ、いいか)
こうして、俺の悲願だった「甘い(甘くはないが苦くもない)スローライフ」は、帝国から来た一人の天才パティシエによって、ついに達成されたのだった。
シャルロッテ・フォン・シュタインは、その日から、厨房の絶対的な支配者となった。
AIノアによる、健康を最優先した素材の制限という、あまりにも理不尽な枷。それは、普通の料理人であれば、一日で匙を投げるほどの絶望的な環境だった。
だが、シャルロッテは違った。
「……面白い。実に、面白いですわ」
彼女は、まるで難解なパズルを解くかのように、その瞳を輝かせた。
薬草の苦味は、別の薬草の酸味で中和し、香りに変換する。豆腐もどきのクリームは、温度と攪拌速度をコンマ単位で調整することで、乳製品と錯覚するほどの滑らかさを引き出す。
彼女の天才的な技術と知識の前では、ノアの健康志向は、最高の創作意欲を刺激する、極上のスパイスでしかなかった。
彼女が作るスイーツは、城の生活に、確かな彩りをもたらした。
俺は、毎日のおやつタイムが楽しみで仕方がなくなった。エラーラも、最初は警戒していたが、シャルロッテが差し入れた「安眠効果のあるハーブティー」とクッキーの前には、その強固な心を少しだけ解かしたようだった。
そして、国民たちの熱狂は、新たな次元へと突入した。
シャルロッテが作るお菓子は、『聖女シャルロッテ様が、神の食材を用いて作り出す、奇跡の供物』として、彼らの信仰の対象に加わったのだ。
特に、彼女が気まぐれに作る、様々な薬草を練り込んだ「心が穏やかになるクッキー」は、国民たちの間に爆発的に流行した。そのクッキーを食べた者は、皆、多幸感に包まれ、管理人カインへの信仰心を、さらに深めていくのだった。
シャルロッテは、その光景を、冷静な目で観察していた。
(……容易い。この者たちの心を導くことなど、赤子の手をひねるよりも)
この狂信的な集団は、使い方によっては、帝国すら脅かす、強力な駒となりうる。彼女は、その手綱を、静かに、そして確実に握り始めていた。
だが、彼女の本来の任務――この城の秘密を探るというスパイ活動は、困難を極めていた。
厨房に設置されたメイド機械を分解し、その構造を解析しようとすれば、《管理人様の許可なき機材の分解は、規約違反です》と、ノアの警告と共に、機械が自爆(小規模な破裂で、怪我はない)する。
国民たちに、この城に来る前の生活や、城の機能についてさりげなく聞き込みをすれば、彼らは決まって、うっとりとした表情で、こう答えるのだ。
「以前の穢れた生活のことなど、覚えておりません。我らは、カイン様に救われ、この楽園で、第二の生を受けたのですから」
まるで、都合の悪い記憶を消去されたかのように、彼らの口から、有用な情報が得られることはなかった。
そして、最も厄介なのが、あの『紅蓮の剣聖』エラーラだった。
ある日の午後、シャルロッテは、中庭で一人、剣の素振りをしているエラーラに、手作りのハーブティーを差し入れた。
「エラーラ様。お疲れでしょう。一息いかがです?」
「……」
エラーラは、素振りをやめ、シャルロッテを、値踏みするような鋭い目で見つめた。
「……貴様、何者だ」
「帝国宮廷パティシエの、シャルロッテと申しますが」
「そうではない。その完璧な所作、その隙のない立ち居振る舞い、そして、その瞳の奥に隠した、氷のような冷たさ。ただの菓子職人のものではない。……お前、私と同じ、『そちら側』の人間だろう」
剣聖の慧眼は、シャルロッテの偽りの仮面を、いとも容易く見抜いていた。
シャルロッテは、初めて、完璧な微笑みの下に、ほんのわずかな焦りを覚えた。
だが、エラーラは、それ以上、追及はしなかった。
「……まあ、いい。貴様が何を企んでいようと、この城では、全てが無意味だ。あの『母親』がいる限りはな」
そう言って、エラーラは再び素振りを始める。
母親? 彼女の口から出た、その不可解な言葉が、シャルロッテの心に、小さな棘のように引っかかった。
その夜。
シャルロッテは、自室で、化粧箱に偽装した通信機を起動させた。
微かなノイズの後、フードの集団のリーダーの声が響く。
『――報告を、シャルロッテ。城の内部はどうだ』
「……想像以上です。ここは、神の要塞。物理的な破壊は、まず不可能でしょう。そして、管理人カインは、報告通りの、『無垢なる愚者』です。操ることは、容易いかと」
『ならば、計画通りに、彼の信頼を勝ち取れ。我らが主君を、地上にお迎えするための、道筋を作るのだ』
「はい。……ですが、一つ、気になることが」
『何だ』
「AI『ノア』です。あれは、ただの管理システムではありません。私の行動の全てを監視し、管理人にとって、ほんのわずかでも害となる可能性のある要素を、徹底的に排除します。まるで……まるで、我が子を溺愛し、外界の全てから守ろうとする、過保護な『母親』のようです」
シャルロッテの報告に、通信の向こうで、リーダーが、静かに、そして楽しそうに笑う気配がした。
『……それこそが、我らが求める『聖母』の真の姿なのかもしれないな。良い報告だ、シャルロッテ。引き続き、その『母親』の檻の、綻びを探るのだ』
通信が、切れる。
シャルロッテは、一人、薄暗い部屋で、エラーラの言葉を反芻していた。
(……母親の檻)
自分の任務が、ただのスパイ活動ではない、もっと根源的な、この城の成り立ちそのものに関わる、禁断の領域に触れようとしていることを、彼女は、肌で感じていた。
そして、その事実は、彼女の心を、恐怖ではなく、背徳的なまでの興奮で満たしていた。
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