56.招待状③
帝都ヴァイスは、未だ再建の槌音と、勝利の喧騒、そして癒えぬ傷の痛みが混じり合う、混沌とした空気に包まれていた。
仮設王城の執務室。皇帝ゲルハルトは、天空城から帰還した老練な外交官、ギュンター・フォン・クラウゼヴィッツからの報告を、厳しい表情で聞いていた。
「――つまり、こうか。城の主は、やはり我らの常識が一切通用せぬ、赤子同然の存在。だが、その機嫌を損ねれば、我らは滅ぶ。そして、その赤子の唯一の関心事は、『菓子』である、と」
「御意。あまりにも馬鹿げた結論に聞こえましょうが、それが、この老いぼれが命をかけて持ち帰った、唯一の真実にございます」
ギュンターは、静かに頭を垂れた。彼の脳裏には、あの玉座の間で感じた、底知れない不気味さが、未だにこびりついて離れなかった。
「……面白い」
やがて、ゲルハルトは、まるで全てを吹っ切ったかのように、不敵な笑みを浮かべた。
「ならば、その望み、叶えてやろうではないか。赤子が、最高の玩具を与えられて満足している間に、我らは、その玩具の作り方を学ぶまでよ」
皇帝の決断は、早かった。
彼は、帝国全土に布告を出した。
「――帝国最高、大陸一の菓子職人を、ただちに帝都へ召集せよ。これは、帝国の未来を賭けた、最重要任務である」と。
それは、剣でも魔法でもない、砂糖と小麦粉と、そして一さじの毒を武器とする、新たな戦いの始まりだった。
【天空城アークノア 玉座の間】
俺は、ここ数日、そわそわして落ち着かなかった。
玉座に座っては、意味もなく立ち上がり、居住区画をぶらついては、すぐに玉座の間に戻ってくる。そのたびに、エラーラから「鬱陶しいぞ、管理人」と、冷たい視線を浴びせられた。
無理もない。俺は、待っているのだ。
帝国が約束してくれた、最高の菓子職人の到来を。
あの不毛な口論の末に、ようやく掴み取った、甘い甘いスローライフへの片道切符。
「まだかなぁ……」
sんな俺の期待を知ってか知らずか、国民たちは、さらに熱狂的に俺を崇拝し始めていた。
「陛下が、我らの知らぬ『カシショクニン』なる神の使いを、地上より召喚なされるぞ!」
「おお! それは、きっと我らの信仰に応えてくださる、新たなる奇跡の顕現に違いない!」
もはや、俺が何をしても、彼らにとっては全てが神の御業として解釈されるらしい。
そして、約束の日。
ノアから、帝国の飛空艇が接近しているとの報告が入った。
俺は、人生で初めて、自らの意思で、身だしなみを整えた。
メインポートに降り立ったのは、一人の女性だった。
雪のように白いコックコートに身を包み、銀色の髪をきっちりとシニヨンにまとめている。理知的な光を宿す瞳は、銀縁の眼鏡の奥で、冷静に、そして鋭く、この城の全てを分析しているようだった。
彼女の立ち居振る舞いは、ただの職人のそれではない。一流の教育を受けた、貴族の令嬢のような気品が漂っていた。
「お初にお目にかかります、管理人様」
彼女は、玉座の俺の前で、完璧なカーテシーと共に、優雅に挨拶した。
「私、皇帝陛下の勅命を受け、本日より貴城にてお仕えさせていただくことになりました、帝国宮廷主席パティシエ、シャルロッテ・フォン・シュタインと申します」
シャルロッテ。その声は、まるで澄んだ鈴の音のようだった。
だが、その正体は、帝国諜報機関『影の薔薇』に所属する、最高位のエージェント。砂糖とスパイスに、毒と情報を混ぜ込むことを得意とする、帝国最強の『食の魔術師』。
「おお! 君が! 君が、そうなのか!」
俺は、玉座から駆け寄らんばかりの勢いで、身を乗り出した。
「待ってたんだ! 早速で悪いんだが、究極のチョコレートケーキを、作ってくれないか!?」
俺の、あまりにも子供っぽい、そして何の威厳もない要求に、シャルロッテは、一瞬だけ、その完璧な微笑みを崩しかけた。
(……これが、管理人? 報告にあった通り……いや、それ以上に、ただの子供……?)
だが、彼女はすぐに冷静さを取り戻す。この無邪気さこそが、相手を油断させるための、高度な擬態なのかもしれない。
「――御意に。私の持てる技術の全てを尽くし、管理人様を満足させる、至高の一品をお作りいたしましょう」
彼女は、再び完璧な笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
その瞳の奥には、獲物を見つけた狩人のような、冷たい光が宿っていた。
シャルロッテが案内された厨房は、彼女の想像を絶する場所だった。
あらゆる調理器具は、彼女が帝国で使っていたものを遥かに凌駕する、未知の技術で作られている。温度も、湿度も、全てが完璧に制御され、素材の鮮度を永遠に保つかのような保存庫まで完備されていた。
(……なんだ、この場所は。帝国の技術レベルを、少なくとも百年は先行している……)
彼女は、内心の驚愕を隠し、持参した最高の素材――最高級のカカオ、新鮮なクリーム、そして、特別な製法で作られた砂糖を取り出した。
だが、彼女の前に、最大の障害が立ちはだかった。
《警告。管理人様の健康を著しく害する可能性のある、高糖度・高脂質の有機物の持ち込みは、許可できません》
厨房の壁から、ノアの無機質な声が響く。
次の瞬間、シャルロッテが持ち込んだ砂糖は、味も素っ気もない薬草の粉末に。バターやクリームは、豆腐をすり潰したかのような、味のないペースト状の物質に、分子レベルで再構成されてしまった。
「……なんですの、これは」
シャルロッテの、完璧なポーカーフェイスが、ついに崩れた。
《管理人様の健康維持は、本城の最優先事項です。代替品として、栄養価が完璧な、こちらの素材をご使用ください》
「こんなもので、最高のケーキが作れるとでも!?」
《肯定します。栄養学的には、完璧なケーキが完成します》
「私が言っているのは、味のことですわ!」
帝国最高峰のパティシエと、最強の過保護AI。
水面下で、女の意地と、機械の論理が、激しく火花を散らす。
その頃、玉座の間で、俺は「またこのパターンか……」と、頭を抱えていた。
ケーキ作りの合間、シャルロッテは、許された範囲で、城内の探索を開始した。それは、彼女の本来の任務――スパイ活動だった。
彼女が目にしたのは、帝国の常識を覆す光景の連続だった。
亜空間に広がる、完璧な都市。
そこで暮らす、完全に満たされた、しかし、どこか狂信的な光を瞳に宿す国民たち。
そして、彼らが、一日の決まった時間に、一糸乱れぬ動きで、あの奇妙な『神体操』を行う光景。
(……ここは、城ではない。国でもない。一つの、完成された『宗教』……!)
彼女は、戦慄した。
帝国がやろうとしていることは、火遊びでは済まされないのかもしれない。我々は、神の領域に、土足で踏み込もうとしているのではないか。
彼女の報告は、帝国の対天空城戦略を、根底から見直させることになるだろう。
数時間後。
玉座の間に、一台のワゴンが、静かに運ばれてきた。
その上に乗せられていたのは、見た目だけは、完璧なチョコレートケーキ。
シャルロッテは、その顔に、疲労と、そして、プロとしての意地が入り混じった、複雑な表情を浮かべていた。
「お待たせいたしました、管理人様。私の、現時点での最高傑作でございます」
数々の制約の中、彼女が、その天才的な技術と知識を総動員して作り上げた、『究極の健康チョコレートケーキ』。
俺は、期待と、そして、いつもの絶望を半分ずつ胸に抱きながら、銀のフォークを、そのケーキへと伸ばした。
その味は、果たして――。
そして、その夜。
シャルロッテに与えられた、豪奢な客室。
彼女が帝国から持ち込んだ、一見するとただの化粧箱。その内蓋に隠された、小さな通信機のランプが、フードの集団が使うものと全く同じ紋様を浮かび上がらせながら、静かに、緑色の光を灯していた。
彼女は、ただの帝国のスパイでは、なかった。
甘き毒は、城の心臓部に、最も警戒されない形で、確かに届けられてしまったのだ。
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