37.悪の魂、堕ちる
帝都ヴァイス、玉座の間。
その場所は、もはや勝利の栄光を祝うためのものではなく、次々と舞い込む凶報に耐えるための要塞と化していた。
「――それで、聖王国へ向かった使者からの連絡は、まだないのか!」
皇帝ゲルハルトの声には、隠しきれない疲労と、焦燥が滲んでいた。
ファルケン将軍率いるアンデッド軍団の勢いは、未だ衰えることを知らず、帝国の北部は死者の軍勢によって蹂躙され続けている。最後の頼みの綱である聖王国からの返答は、あまりにも遅かった。
いや、使者が目的地にたどり着く前に、道中のどこかで、ファルケンの手に落ちたのかもしれない。その可能性が、重臣たちの顔に暗い影を落としていた。
その、重苦しい沈黙を破ったのは、玉座の間の扉を転がるように開けて入ってきた、一人の斥候だった。
その男は、帝国でも屈指の斥候技能を持つ、歴戦の勇士のはずだった。だが、今の彼の姿は、まるでこの世の終わりでも見たかのように顔面を蒼白にさせ、その体は、鎧の下でわなわなと小刻みに震えている。
「……報告、せよ」
ゲルハルトが、低い声で促す。
斥候は、まるで凍りついた喉から、無理やり言葉を絞り出すかのように、かすれた声で言った。
「は……はい……。旧王都、アヴァロンの……偵察任務より、ただ今、帰還いたしました……」
その言葉に、居並ぶ大臣や将軍たちの間に、わずかな安堵の空気が流れた。アヴァロンは、今や帝国の重要な拠点の一つ。そこが健在であれば、まだ反撃の芽はある。
だが、斥候が続けた言葉は、その淡い期待を、根こそぎ打ち砕いた。
「……アヴァロンが……街が、ありません……」
「……何?」
誰かが、間の抜けた声を上げた。
斥候は、まるで悪夢を語るかのように、首を横に振り続けた。
「街も、人も、駐留していた我が軍も……すべてが、消え失せておりました。そこにあったのは、ただ……巨大な、巨大な円形の……クレーターだけで……ございます……」
玉座の間に、死よりも深い沈黙が落ちる。
大臣たちは顔を見合わせ、将軍たちは眉をひそめた。誰もが、斥候が恐怖のあまり正気を失ったのだと思った。都市が、丸ごと一つ消えるなど、天地がひっくり返ってもありえない。
ただ一人、皇帝ゲルハルトを除いては。
彼の脳裏に、かつて外務卿リヒャルトが持ち帰った、あの恐怖の報告が蘇っていた。
『――城主は無能。ですが、城そのものが、神にも等しい守護者となっております』
(……奴だ)
ファルケンでも、連合王国の残党でもない。
そんな神話級の芸当が可能な存在は、この世界にただ一つ。
空に浮かぶ、あの理不尽で、あまりにも無邪気な災厄。
「……く、くく……」
ゲルハルトの喉から、乾いた、壊れたような笑いが漏れた。
「……ははは……はーっはっはっはっは!」
やがて、それは狂気の入り混じった高笑いへと変わる。大臣たちが、狼狽したように「へ、陛下?」と声をかけるが、皇帝の耳には届いていなかった。
「そうか、そうか! 我が軍が駐留していたからか! あの街を、我が帝国の領土と見なし、警告として、消し去ったか!」
皇帝は、全てを「理解」した。
あの城の主は、我らがアヴァロンを占領したことを、帝国による『侵略』と判断したのだ。そして、その返答として、街ごと、そこにいる人間ごと、何の躊躇もなく、消し去った。
まるで、子供が砂場遊びの山を、気に入らないからと、無邪気に踏み潰すかのように。
戦うことすら、できない。
相手は、こちらの都合など一切おかまいなしに、気まぐれで都市を一つ、地図から消し去る。議論も、交渉も、駆け引きも、そこには存在しない。ただ、圧倒的な力が、全てを蹂躙するだけだ。
覇王は、初めて、神の視点から見下ろされる蟻の気持ちを、痛いほどに理解した。
ファルケンとの戦いも、聖王国への救援要請も、全てが、あまりにも些末な、人間同士の矮小な争いに思えた。
本当の敵は、決して人間では届かぬ、遥か天上にいる。
そして、その敵の前では、帝国の覇道も、誇りも、何の意味もなさない。
高笑いが、ぴたりと止んだ。
ゲルハルトは、まるで十年も歳を取ったかのように、ゆっくりと玉座に崩れ落ちた。
その瞳から、覇王の光は、完全に消え失せていた。
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