33.聖杯
帝都ヴァイスは、まだ戦勝の余韻に浸っていた。
街角の酒場では、兵士たちが勝利の美酒に酔い、吟遊詩人たちは覇王の武勇伝を声高に歌い上げる。帝国の栄光は、今まさに頂点にあるように、誰の目にも映っていた。
だが、その輝かしい光の裏側、帝国の心臓部である王城では、重苦しい空気が支配していた。
「――それで、まだ犯人の手がかり一つ掴めんのか!」
皇帝ゲルハルトの怒声が、玉座の間に響き渡る。
彼の前には、帝国保安部の長官が、滝のような汗を流しながらひれ伏していた。
「も、申し訳ございません! 宝物庫の警備は完璧でした。侵入の痕跡も、魔法の残滓も、何一つ……。まるで、最初からそこに『聖杯』など無かったかのように……」
「戯言を!」
ゲルハルトは、玉座から立ち上がり、苛立ちを隠さずに部屋を歩き始めた。
盗まれたのは、ただの杯ではない。帝国の建国神話に深く関わる、民衆の信仰の象徴そのものだ。この事件が公になれば、帝国の権威は失墜し、民の心に大きな動揺が広がるだろう。
(誰が、何のために……?)
皇帝の脳裏に、二つの影がよぎる。
一つは、反乱軍の将、ファルケン。あの男ならば、帝国を内側から揺さぶるため、このような卑劣な手に打って出るかもしれん。
そして、もう一つは――あの不気味な、フードの集団。
(ファルケンが、奴らと手を組んだとでもいうのか? いや、あの忠義の男が……だが……)
猜疑心が、毒のように皇帝の心を蝕んでいく。誰を信じ、何を疑うべきか。覇王は、今や孤独だった。
「……ぐっ!」
考えに没頭するあまり、ゲルハルトは、またしても腰に手を当て、深く考え込む、あの体勢を取ってしまっていた。ピキリ、と走る鋭い痛み。
「いでっ……! またか、この忌々しい腰は……!」
側近たちが慌てて駆け寄る中、皇帝は、誰にも言えぬ痛みに顔を歪ませるのだった。
【??? 地下神殿】
その頃、聖杯盗難の真犯人であるフードの集団は、地下室で沈黙の集会を開いていた。
祭壇には、盗み出された帝国の聖杯が、鈍い輝きを放っている。だが、彼らにとって、それは目的ではなく、あくまで手段に過ぎなかった。
リーダー格の男が、ゆっくりと一度、頭を下げる。
(――聖杯は手に入れた。だが、我らが真に求めるのは、主君との謁見。如何にして、我らの祈りを天に届けるべきか)
その問いに、沈黙の議論が始まる。
だが、導き出される結論は、どれも不確かなものばかりだった。
魔法による交信は、迎撃される危険性が高い。
貢物は、主君の好みが分からなければ意味がない。
そもそも、あの天空城は、招かれざる客を、扉の前で塵にする。
会議は、完全に行き詰まっていた。
彼らは、神を崇拝していながら、その神と対話する方法を、何一つ知らないのだ。
やがて、リーダー格の男が、苦渋に満ちた、それでいて決意を固めた会釈をした。
(――時期尚早。我らは、まだ主君の御前に立つには、あまりに未熟)
彼は続けた。
(――我らに必要なのは、さらなる混沌。地上を、主君が降臨するにふさわしい、穢れなき更地へと作り変えること。そして、そのための駒が、我らには必要だ)
リーダーの視線が、地図の上に置かれた一つの駒――『ファルケン将軍』の名が記された場所へと注がれる。
(――天空城の反応を伺うのは、まだ早い。まずは、地上の駒を全て揃える。ファルケン将軍を探し出せ。あの男は、帝国を内側から食い破る、最高の『劇薬』となるだろう)
天空城との対話という、あまりにも壮大な目標は、一旦、保留とされた。
彼らの当面の目的は、再び、地上の混乱を画策すること。
そして、その鍵を握る男、ファルケン将軍の捜索へと切り替わったのだった。
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