32.忍び寄る危険
帝都ヴァイス。
戦勝祝賀の熱狂が嘘のように、街は再び日常を取り戻しつつあった。だが、その日常の裏側、光の当たらない場所では、新たな混沌が静かに胎動していた。
裏路地にひっそりと佇む、寂れた酒場。その固く閉ざされた地下室に、十数人の人影が、蝋燭の灯りだけを頼りに集っていた。全員が、顔を隠す深いフードを被っている。
「――異常ありません。ただの物好きな連中が集まる、秘密結社ごっこのようですな」
酒場の向かいの建物の屋根裏。帝国保安部の監視兵が、魔法の望遠鏡でその様子を覗きながら、隣の同僚に囁いた。
「声一つ立てず、ただ座っているだけだ。思想も、目的も不明。だが、危険度は低いと判断する」
「うむ。一応、定期報告だけは上げておこう」
彼らは、その集会を、取るに足らないものとして処理した。
その頃、地下室では、沈黙の会話が交わされていた。
リーダー格の男が、正面に座るメンバーに向かって、ゆっくりと一度、深く頭を下げる。
(――ファルケン将軍の件、報告せよ)
問われた男は、短く、鋭く、二度会釈を返した。
(――接触に失敗。彼は、我らの『福音』を受け入れず、帝国への愚かなる忠誠を選びました。処分しますか?)
彼らの間では、声という野蛮で不確かな伝達手段は用いられない。会釈の角度、速度、回数、そして間に込める魔力の微かな揺らぎ。その全てに意味が込められた、彼らだけの言語が存在するのだ。
リーダーは、ゆっくりと首を横に振るように、左右に小さく頭を揺らした。
(――不要。彼は駒にはならぬが、帝国の体力を削ぐ『病』としては有用。泳がせておけ。我らが手を下すまでもない)
そのやり取りが終わると、別の席から、新たな会釈による報告が上がる。
一人は、帝国一と謳われる娼館の主でもある、妖艶な女。彼女の会釈は、流れるように滑らかだった。
(――皇帝ゲルハルト、表向きは勝利に酔う覇王を演じていますが、内実は天空城への恐怖に苛まれています。近々、民衆への監視を強化し、さらなる軍拡のため、重税を課すでしょう。帝国は、内側から腐り始めます)
また一人、かつて滅びた連合王国の王城に勤めていたという、痩せた男が、神経質に頷く。
(――連合王国の残党は、各地で抵抗の火種を燻らせています。我らが少し風を送ってやれば、帝国の足元を脅かす大火となるでしょう)
そして、最も禍々しい空気を放つ一人が、静かに頭を上げた。そのフードの下からは、死んだはずの西の魔女モルガナと同じ、銀色の髪が覗いている。彼女は、モルガナの元弟子だった。
(――我が師、モルガナは死にました。ですが、彼女が残した『世界の歪み』は、まだ各地に残っています。それを利用すれば、この大陸に、さらなる混沌を招き入れることが可能です)
師の死を悼むでもなく、ただ、利用価値のある駒としてしか見ていない。その冷徹な会釈に、他のメンバーたちは満足げに頷きを返した。
メンバーは、実に多種多様だ。貴族もいれば、平民もいる。元軍人もいれば、学者もいる。彼らを繋ぐのは、ただ一つ。
天空城の管理人を、この穢れた地上に降臨させるという、狂信的な信仰のみ。
リーダー格の男が、静かに立ち上がり、全員を見渡して、最後の一礼をする。それは、深く、そして、確信に満ちた会釈だった。
(――混沌は、順調に育っている。地上が乱れ、人々が絶望に喘げば喘ぐほど、彼らは天に救いを求めるだろう。我らが主君、天空の管理人様をお迎えする道は、着実に拓かれている。全ては、御心のままに)
その会釈を以って、集会は終わった。
メンバーたちは、来た時と同じように、音もなく、一人、また一人と闇の中へ消えていく。
帝国の足元で、静かに、そして確実に進行する計画の全貌を、まだ誰も知らなかった。
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