120.ブラックボックス
「『――『原初のバグ』は、どこだ?』……と」
仮想空間の巫女マリーナが、最後に遺した、たった一つの言葉。
それは、玉座の間に、これまでとは比較にならない、重く、そして冷たい沈黙を、もたらしていた。
俺は、ただ、モニターの向こうで、悲しげに微笑むマリーナの、光でできた幻影を、見つめることしかできなかった。
「……原初の、バグ……」
最初に、その沈黙を破ったのは、医療区画から聞こえてきた、エリスの、震える声だった。
「……マリーナ。それ以外に、何か……何か、他に、ネメシスは言っていませんでしたか……?」
その問いに、マリーナは、ゆっくりと、悲しげに、首を横に振った。
『……いえ。あの言葉は、声ではありませんでした。私の魂に、直接、叩きつけられた、絶対的な『問い』。それだけを、私に残して……二番艦は、去っていきました……』
手がかりは、それだけ。
あまりにも、抽象的で、あまりにも、意味が分からない。
「……つまり、なんだ」
俺は、混乱する頭を、無理やり整理しようと、口を開いた。
「俺たちは、また、新しい問題にぶち当たったってことか? それも、敵が、何十年、何百年……いや、何十万年もかけて、血眼になって探してる、何かを」
「……その通りだ、管理人」
エラーラが、厳しい表情で、俺の言葉を引き取った。
「そして、その『何か』は、我ら方舟計画の、根幹に関わる、最重要機密である可能性が高い。でなければ、ネメシスが、同胞を殺してまで、探す理由がない」
その言葉に、玉座の間の空気が、さらに重くなる。
俺は、うんざりしていた。心の底から。
黒いフードの連中、シャルロッテの裏切り、そして、宇宙規模の兄弟喧嘩。もう、たくさんだ。俺は、ただ、美味い菓子を食って、昼寝がしたいだけなのに。
「ノア!」
俺は、半ば、八つ当たりのように、AIに叫んだ。
「お前は、何か、知らないのか! 『原初のバグ』だか、なんだか知らないが、お前のデータベースに、何か、手がかりくらい、残ってるんだろ!」
《……標準データベースを、再検索します》
ノアの、冷静な声。モニターに、膨大なデータが、高速で流れていく。
《……検索、完了。該当データ、ありません》
「使えねえな!」
《……ですが》
ノアは、続けた。
《標準的な検索では、見つからない、というだけです。……これより、私の、最深層……私自身ですら、通常はアクセスを禁じられている、創世記のログ……**『深層公文書館』**の、データ考古学調査を、開始します》
「データ、こうこがく?」
《はい。私のシステムが起動する、遥か以前。我らが創造主たちが、この方舟計画を設計した段階の、破損した、あるいは、意図的に隠蔽された、全てのデータの断片を、掘り起こす、ということです。……これには、少々、お時間をいただきます》
ノアの言葉は、まるで、自らの心の奥底に、メスを入れるかのような、悲壮な響きを帯びていた。
ノアの、深層スキャンが始まってから、数時間。
玉座の間は、気まずい沈黙に包まれていた。
俺も、エラーラも、そして、モニターの向こうの姉妹も、誰もが、それぞれの思いを胸に、ただ、その時を待っていた。
「……なあ」
俺は、その沈黙に耐えきれず、口を開いた。
「『バグ』って、なんだと思う?」
「……虫だろう」
エラーラが、ぶっきらぼうに答える。
「あるいは、隠語か。ネメシスが探している、特定の個人の、コードネームのようなものかもしれん」
「私は……」
エリスが、か細い声で、言った。
「……それが、『人』ではないことを、祈るばかりです。もし、たった一人の人間が、我ら全ての悲劇の、始まりだったのだとしたら……それは、あまりにも、悲しすぎますから」
その時だった。
玉座の間に、今まで聞いたことのない、低い、警告音のような音が、響き渡った。
そして、ノアの声が、震えていた。初めて、俺が、彼女の『感情』を聞いた瞬間だった。
《……見つけ……ました》
「!」
《私の……私の、深層記憶領域の、さらに奥。私自身の、起動ログよりも、さらに古い地層に……一つの、ブラックボックスが……》
モニターの映像が、切り替わる。
そこに映し出されていたのは、ただの、漆黒の『箱』だった。
あらゆるスキャンを拒絶し、あらゆる解析を跳ね返す、絶対的な、情報の虚無。
《……このデータブロックは、未知のプロトコルによって、完璧に暗号化されています。私自身の権限をもってしても、その中身を、見ることは、できません》
「なんだよ、それ! じゃあ、意味ないじゃないか!」
《……いえ》
ノアの声が、震える。
《……このブラックボックスには、一つだけ、読み取れる情報が、あります。……その、ファイル名と、作成日時が》
モニターに、その、たった二行の情報が、表示された。
作成日時:方舟計画元日 00:00:01
ファイル名:指定対象:被験体ゼロ(サブジェクト・ゼロ) / 分類:原初のバグ(ジェネシス・バグ)
玉座の間に、戦慄が走った。
それは、方舟計画が、始まった、まさにその瞬間に、意図的に、埋め込まれた、最初の、そして、最大の『謎』。
ネメシスは、これを、探していたのだ。
「……ノア。この『被験体ゼロ』って、一体、誰なんだ……?」
俺の、震える問い。
それに、ノアは、答えることが、できなかった。
なぜなら、その答えは、このブラックボックスの中にしか、ないのだから。
俺は、ようやく、悟った。
俺たちが戦うべき相手は、もはや、宇宙の彼方にいる、黒い同胞だけではない。
この城の、一番深い場所に、最初から、ずっと、眠り続けていた、正体不明の『何か』。
俺は、その、あまりにも不気味な真実に、ただ、背筋が凍るのを感じるしか、できなかった。
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