流れ、染めるは同じ色。
……幼い頃から、唯一無二というものに惹かれた。
理由は知らない。ただそれが己の本能であるかのように、唯一無二の自分自身が欲しくて欲しくて堪らなかった。
後に、自分が欲したその立場は「主人公」というのだと知った。その言葉を生まれて初めて聞いた時、妙にしっくりきた記憶がある。
俺は未だ、それを手には出来ていない。故に今も、それを求め続けている。
……ただひたすらに、筆で色を塗り付けて。
◇
「あ……ああ、あ――――」
からん、と、雨の中に重くて鈍い音が響く。
人を刺した。透明だった水溜りに赤黒い血がどろりと溶けて、半透明な赤い染みがさらさらと黒いアスファルトの上に広がっていく。
思わず後退りをしてしまうが、それが人を殺したことへの恐怖なのか、或いは単に靴を汚したくなかったからなのかは正直言って分からない。
ただ、不思議と高揚する感じがした。
目の前で死んでいる男が、自分の絵を今まで散々に罵倒してきたゴミクズの擬人化みたいな男が、本当にゴミクズになったことが、心の底から喜ばしい。いっそ花束でも買って、これに供えてやりたい気分だ。
そんな気分を自覚すると、さっき後退りをしたのもこんな血で靴を汚したくなかったが故の行動だったのだろうと察することが出来てしまう。
取り落とした包丁を拾おうと思って屈んだが、血溜まりに落ちていたので止めた。せっかく靴を汚さなくて済んだのに、手を汚しては意味が無い。
まぁ指紋だの何だのは、雨が流してくれるだろう――そんな風に考えて、帰ろうと踵を返したその時。不意に背後で、何かが蠢く気配を感じた。
生きていたのか、それならとどめを刺さなきゃならない。そのことに若干の面倒臭さを覚えながら、緩慢な動作で振り向くと――――
「……………………は?」
異質な「何か」が、そこには居た。
赤い――ただ赤い。血の赤黒さとはまた異なる、純粋な赤色の液体が、重力に反してうねうねと蠢いている。
その様はまるでゲームに出てくるスライムのようだが、ぶにぶにとしたゼリーのような印象のあるそれとは違い、こちらはさらさらと流動的で、ゼリーよりも液体らしい雰囲気だ。感覚的に言うならば、チューブから出したての固い絵の具よりも水に溶いた水彩絵の具の方に近い。
血溜まりと化していた水溜りが綺麗さっぱり消えていることから、それがそこから生まれたことは容易に想像することが出来る――が、それにしては色がやはり赤過ぎる。その赤さは今まで見ていた純粋なレッドが、クリムゾンであったかのように思えてしまう程だ。
それはまるで「赤」という概念そのものが、形を成したかのような――いや、正確に言えば形を成してはいないのだけども。
異質で、異様で、歪な「赤」。それは降り注ぐ豪雨の中、その不定形な液状の体を時折ぐにゃりとうねらせながら、形容し難い耳障りな音を響かせて――先刻殺したばかりの男の、亡骸を取り込んでいく。
「喰べている」と敢えて表現しなかったのは、咀嚼音と思しき音が歯を持つ生物のそれとは到底思えぬものだったからだ。そうで無ければ「取り込んでいく」などとは言わない。
何せ「赤」は紛れも無く死体を噛み喰らっている――液体の中にぽつりと浮いた、人間じみた歯茎と歯だけの口腔部で。
(……これは――――)
言語化出来ない感情が、胸の内に湧き上がる。
恐怖とも嫌悪とも違う、抱いたことのない感情。これまで如何な芸術作品を目にしようと微塵も動かなかった心が、大きく揺らいでいるのが分かる。
……ふと、思い当たるものがあった。
「言語化出来ない」と思い込んでいた感情に、ぴたりと嵌まる感情の名前。どうやら、初めて抱く感情に対する動揺が語彙を狭めていたらしい。
心を大きく揺らがせる、この感情の名称は――――
(……感動、だ)
こんなにも美しい存在は、今まで一度も見たことが無い。
混在し、混合し、全てがありふれた有象無象へと埋没していくこの世界で、それはあまりにも鮮明に、己が存在を主張している。
濁った混色だらけの中で、どこまでも純粋な赤一点。
『唯一無二』。愛してやまないその言葉が、体現されたかのような――悍ましく美しいその異形に、どうしようもなく惹かれていた。
(……………………あ)
よく見ると、液体の中に熟れたプチトマトのような赤い球体が浮いている――その球体、赤い眼球はいつの間にか、こちらの姿を捉えていた。
「……えっ?」
直後、突然身体から平衡感覚が失われる。
「う、わっ……!?」
ずでん、と強く尻餅をついた。
どうやら無意識に一歩下がり、水溜りで足を滑らせたらしい――我ながら鈍臭いことこの上無いが、この時ばかりはそれに助けられたと言える。
それが無ければ――死んでいた。
「痛っ……!」
瞬間、強烈な痛みが走ったのは臀部ではなく左腕だった。
尻餅をつく時、咄嗟に庇って痛めたか――いや、違う。この痛みはそんな、打ち付けた時や捻った時の痛みではない。
この鋭さはまるで、紙や彫刻刀で切ってしまった時のような――――
「…………は、ぁ?」
その感覚は、正しかった。
切れている――否、斬られている。左腕の前腕が横向きにぱっくりと斬り裂かれ、眼前のそれとは全く違う赤色をした液体が地面に滴り落ちている。
ほんの少し、眩暈がした――それが流血のショックなのか、貧血の所為かは定かではない。それを定かに出来る程、正常に脳が働いていない。
一瞬、雨が雪になったかと思った。
触れる雫が、まるで氷のように冷たい。特に背中は霜が張り付いたように寒くて、風が吹く度に電流のような痛みが走る。梅雨のじめっとした空気が、冬の空気と遜色無い程にかさついているように感じる。実際に今乾いているのは、汗も涎も枯れ果てた自分の身体の方だと言うのに。
「はぁ……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――――」
身動きすることすら出来ず、荒い息を吐き続ける。
寒いのに暑い。暑いのに寒い。心臓が耳の中にあるのかと勘違いしてしまう程に鼓動の音が喧しくて、その影響か酩酊したような感覚に陥る。
目がひりひりと痛み出して、瞬きをしていないことに気付いた。閉じようとしても瞼は下がらず、けれど流す涙も無いのか視界が滲むことも無い。その所為で両目に走る痛みは、ただひたすらに増すばかりだ。
……ぐねりと、「赤」が揺らめく姿が見えた。
また、腕を斬り裂いた「何か」が来る。今度は確実に狙いを定めて、動けない的を両断する。先刻のような幸運も、今は起こりようもない。
即ち、生存は絶望的――数秒後には、確実に死ぬ。先刻この手で刺し殺し、その後「赤」に取り込まれた、あのゴミクズと同じように。
それは嫌だ――そう思っても、動けない。
微動することも出来ないまま、数年のような刹那が過ぎる。その最中、頭の中では自分自身の人生が映画のように流れていた。
内容は、正直言ってクソ映画だ。まるで中身の存在しない、空の箱を見ているような虚無な時間が、だらだらと三十二年分続いている。
これが自分の人生と思うと、悲しさを超えて笑えるぐらいだ。こんな人生の人間なんて、あっさり死んで当たり前かも――――
(……いや、待て)
思わず、思考にブレーキをかけた。
あっさり死んで当たり前。本当に、それで良かったのか?
突如現れた怪物に当然のように瞬殺されて、喰われてこの世から消えて、後に残るのは失踪したという事実だけ――そんなのは。
名前のないモブの死に様だ。
「被害者A」なんてものが――俺に相応しい死に様か?
違う、そんな訳が無い。俺はまだ、唯一無二になっていない。この俺の最期がただのモブと同じなんて、そんなことがある筈が無い。
俺はこの世で、唯一無二の――
――――十色霾季という、主人公になる存在だ。
「う、がぁぁぁぁぁぁあぁぁあ!!」
己を鼓舞するように叫んで、眼前の「赤」を睨め付ける。
「赤」は丁度、体から赤いウォーターカッターのような刃を吐き出したところだった。その攻撃を横に転がることで躱し、体勢を瞬時に立て直す。
「はっ、流石は俺の身体だな!運動なんて高校の体育以来だし、腕に怪我もしているのに、反射神経も運動能力も一般人とは桁違いだ!」
自分の才能に感謝しつつ、改めて「赤」の様子を見る。
回避されたことを警戒しているのか、威嚇するようにうねるだけで攻撃を仕掛けてくる気配は無い――が、そのうちまた「アレ」が来るだろう。
(……こっちから攻撃する手段は無い。なら――――)
逃げるが勝ちだ。そう判断して立ち上がり、「赤」に背を向けて走り出す。
ちらりと背後に目を遣ると、「赤」が体をうねらせていた。嫌な予感がして少し横に移動すると、案の定さっきまで居た場所を赤い刃が通過する。
「直感力」も優れている自分で無ければ、今頃真っ二つになっていただろう――そんな風に考えながらも、決して油断したりはしない。
(……さて、ここからどうすべきか)
「赤」はこちらを追って来ている。移動速度も見た目に反して相当速く、何より奴は「赤い刃」を使用可能だ。
速度だけならともかくとして、「赤い刃」を避けながら最高速度を維持し続けるのは、流石の俺でも少し厳しい。逃げ続けても、振り切る前にこちらの体力が底を尽いて二つに斬り分けられるのがオチだ。
だとすれば、残る手段はあと三つ。
①、何処かに隠れてやり過ごす。
②、誰かに助けて欲しいと頼む。
③、自力で「赤」を殺害する。
すぐ思い付くのはこの辺りか――とは言え正直取れる手段は、この中なら実質的に一つだけだ。
まず、②は絶対に有り得ない。そもそもとしてこの辺りは人の通りが極端に少なく、仮に叫んでもほぼほぼ誰にも届かない(だからこそ、あのゴミクズの殺害をこの場所ですることに決めた訳で)。
更に言えば、助けを求めた相手が「赤」に対処出来る確率など、殆ど零に等しいだろう。出来たとて、せいぜい数秒の時間稼ぎだ。
そして何よりの理由だが、凡人如きに助けを求めるなどという行為を自分のプライドが許せない。自分以外にそんな無様を晒すぐらいなら、いっそここで死んだ方が幾分マシというものだ。
そして、③も有り得ない。
理由はと言えば、液状の体で確実に物理が効かない「赤」を自力で殺害することなど、この俺ですら現状不可能な行為だからである。一応、色々と手段は模索したのだが、どれも今の手札では使い物になりそうもない。
どこか冷凍倉庫にでも誘い込み、凍らせれば物理で砕けるようになるのでは無いかともほんの一瞬だけ考えたが――それもよくよく「赤」について思い返せば、不可能な手だと分かってしまう。
「赤」は、雨に溶けていかなかった。その時点で、あれは形が液状なだけでそもそも液体では無いのだろう――ならば冷やしたとしても、個体になるかは怪しいものだ。それと殆ど同じ理由で、蒸発というのも無理筋になる。
となれば、残る手段は①――「何処かに隠れてやり過ごす」だが、これも正直上手く行くかは分の悪い賭けといったところだ。
「隠れる」という手段は、「相手が諦める」ことが必須条件となっている。なので執念深く追い回す相手――例えば、羆などには意味が無い。
「赤」がそういう性質ではない確証は無いし、何なら追って来ていることからその確率は上昇している。更に言えば「赤」がそれこそ羆の嗅覚のような、何らかの探知手段を有している可能性も全く無いとは言い切れない。
仮にそういう能力を持っていた場合、足を止めて何処かに隠れるという行為は善手どころか最悪手だ。そうなれば、今度こそ確実に殺される。
とは言え――悩む時間は、無い。
他の手段が取れない以上、九割負ける賭けだとしても今は一割に希望を託して何処かに身を隠す他無いのだ。
(……かと言って、そう都合の良い場所なんて――――)
あっただろうかと、脳内に周辺の地図を浮かべる。
角に隠れて息を潜める、なんて単純な方法では恐らく「赤」から隠れ切れない。もっと複雑に潜める場所、例えば民家や書店のような――――
(……あ)
一つ、丁度良い場所を思い出した。
すぐそこと言う程近くは無いし、理想程広い訳でも無いが、隠れることは可能な場所。ついでに言えばもう一つ、期待出来る要素もある。
(よし、あそこだ)
目的地を定め、その場所に向けて足を動かす。
その間も飛来する赤い刃を紙一重のところで躱し、記憶に沿って入り組んだ人気の無い道をただひたすらに走り抜けた。
まず目の前の角を右、そこから二つ目の角までまっすぐ進んでそこを左、すぐにもう一度左に曲がって、次の角を右に曲がる。後はこのまま直進して、最後に三つ目の角を右に曲がれば――――
(ま、間に合った……!)
……目的地の、文房具屋に辿り着く。
そこは閑散とした道の途中にぽつんと建つ、悪く言えば廃墟じみた外観の店だ。古臭い見た目をしているが、一応閉店はしていない。
見る限り、今日も営業中のようだ。シャッターも下ろされていないし、ガラス戸の中からは白い蛍光灯の明かりが薄らとだが漏れている。取り敢えず、臨時休業で詰むという最悪の展開は何とか引かずに済んだらしい。
しかし、安堵する余裕は無かった。
どうやら疲労で距離を詰められてしまったらしく、さっき曲がったばかりの角から「赤」の這うような移動音が聞こえて来る。今ここで呑気に一息吐いてなどいたら、それを吐き切るよりも早く両断されてしまうだろう。
(やばい、急がないと……!)
飛び込むように店に入り、一番近い棚の裏に身を潜める。それから僅か一秒後、カウンターで新聞を読んでいた老店主が少し遅れて扉の音に反応し、こちらの奇行に気付くことなく顔を上げたその瞬間――
「いらっしゃ――」
「――――ぃ?」
――――店主の身体は、正中線で両断された。
二つに分割された店主はカウンターにぐちゃりと落ちて、灰色だったコンクリの床が一気に赤黒く染まっていく。その中に、同系色でありながら圧倒的に異質な「赤」が、ぬるりと入り込んで来た。
見つかってしまわないように、その時点で「赤」を視界から外す。
ここからは賭けだ。「赤」がこちらを見付けられず、尚且つ諦めてくれるという奇跡が起きるか、或いは普通に死ぬかの賭け。
一応、ほんの少しでも生存率を上げる為に一つだけ策を講じておいた。その策に意味があったかどうか、後数秒で答えが分かる。
「…………………………」
祈るように息を潜め、アルマジロのように身体を縮めて、数秒の時が経過した。思考が続いている辺り、死んではいないのだと思う。
甘ったるい埃の匂いがすっかりと生臭い血の匂いに上書きされた店内には、不気味な音が響いている。その音は、つい先刻も聞いた音だ。
咀嚼とは思えない咀嚼音――どうやら、首の皮は繋がったらしい。
講じた策とは、要するに囮――もとい、生贄を用意することである。
知る限り、この店には定休日というものが無い。つまりこの店はいつ訪れても大抵の場合、最低でも一人は人が居るということだ。
その人間を生贄にして、「赤」がそれを喰べている隙に離脱する――それが無理でも、生贄を喰えば腹が満ちて立ち去ってくれるかも知れない。
ただこの策も、現状最善であるとは言え生き延びられるかは相手依存で不確実だ。やはり確実に生き延びるには、この手で「赤」を殺すしか無い。
しかし、どうすればあの怪物を殺せるのか。それは先刻切り捨てた手で、あの時と状況は何一つ変化していない――新たな手札は増えていない。
やはり、どうしようも無いのか――そう思って俯いたその時、自分にとっては見慣れた物が視界の中に飛び込んで来た。
(……水彩、絵の具?)
恐らくここに隠れた際、偶然掠って棚から落ちてしまったのだろう。俺は音に気を付けながら床に落ちたそれを拾い、手の中で軽く弄んだ。
(黒い絵の具……そう言えば、そろそろ無くなりそうだったか。奇跡的に生き延びられたら、ここのを何本か拝借させて貰おうかね)
最早持ち主の居ない道具だ、拝借しても問題あるまい。こいつらだって捨てられるよりは、使われた方が幾分幸せというものだろう。
昔から、俺は黒の消費が早い。それは描いた絵が気に食わないと、ついつい黒で塗り潰してしまう悪癖があるからなのだが――――
(……………………ん?)
ふと、自分の思考に引っ掛かりを覚えた。
(……塗り、潰す?)
俺が絵を塗り潰す際に黒を使用しているのは、それがどんな色であっても消し去ってくれる色だからだ。
覆い隠す色。
消滅させる色。
もし仮に――それで赤を、塗り潰すことが出来るとしたら?
(……試す価値は、ある)
「赤」は、色が具現化したような怪物だ。もしその解釈が間違っていないとするならば、黒で塗り潰せるかも知れない。
尤も、間違っていれば死ぬのだが――どの道、ここに隠れていてもジリ貧だ。一か八か、賭けに出た方が生き延びられる確率は高い。
幸いなことに、「赤」は現在食事に夢中になっている。妙なヘマさえしなければ、虚を突くことは可能だろう。
(食い終わる前に、やるしかない)
俺は軽く視線を巡らせ、最初に目に付いた筆を取った。裸でフックに吊り下げられていたそれは書道用の筆だったかも知れないが、筆として使用出来るなら今はそこにこだわる気は無い。
絵の具を口に流し込み、唾で軽く緩めてからそれを筆に塗り付ける。途中吐き出しそうになったが、流石に無理矢理耐え凌いだ。
絵の具を口に含んだまま、そっと「赤」の様子を伺う。やはり食事に夢中らしく、こちらに気付いた素振りはない。
抜き足、差し足、忍び足。棚の陰からそっと出て、蝸牛のようにゆっくりと「赤」の背後に近付いて行く。
だが、それが本当に背後なのかが分からない。こちらが気付いていないだけで、あのトマトより赤い眼球は自分を見据えているのではないか――そんな恐怖で崩れ落ちそうになりながら、ゆっくりと「赤」に迫って行く。
緊張故か、呼吸は自然と止まっていた。或いは心臓の鼓動すら、今は止まっているかも知れない。
あらゆる音が排除され、異様な咀嚼音だけが響く。それは鼓膜にへばり付き、深酒をした時のような酩酊感を脳の中枢に流し込んだ。
頭痛がする。眩暈がする。吐き気がする。平衡感覚が失われ、自分がそこに立っているのかそれとも倒れ込んでいるのか、それさえ曖昧に感じられる――けれど何故か感情だけは、不思議と強く高揚している。
微音すらしない心臓が、痛みだけを訴えていた。
それは死を予感させる程強く、けれど心地良い痛み。気を抜けば絶頂してしまいそうな程に甘美で、そして魔的な猛毒の味。
恐怖や緊張感よりも、その甘さへの執着こそが流れる時間を拒絶しているような感覚。けれど如何に拒絶しようと、時間は進むし状況も変わる。
気付けば、筆が届く距離にまで「赤」に接近出来ていた――接近してしまっていた。その現実に僅かな落胆を覚えながら、そっと筆を振り上げる。
(……南無三)
ぴしゃん、と、久々に違う音が響いた。
見ると「赤」の体から黒い絵の具の触れた部分が、明らかに削り取られている。そして「赤」が呻くように、大きく体をうねらせた。
効いている――つまり、殺せる。
その確信を得た瞬間、俺は普段絵を塗り潰す時のようにぐちゃぐちゃと出鱈目な軌道で手に持った筆を振り回した。
動く暇も与えない。力強く全力で、まさにやたらめったらという動きで、薄れてきたら口内に筆を突っ込んで補充、そうしたら再び振り回すという手順を何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返した。
……そうして我に帰った時、既に怪物は居なかった。
辺りには飛び散った黒い絵の具と、靴を濡らす臭い血溜まりが有るだけだ。
「く――は、あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
その状況に、思わず高笑いを上げた。
別に壊れた訳ではない。寧ろ落ち着きを取り戻し、今まででも類を見ない程穏やかな気分になっている――だからこそ、俺は笑ったのだ。
さっきまでは「怪物」としか見えなかったが、冷静に現状を見て考えればあれは「無差別に人間を襲う怪物」とでも言うべき存在だった。
俺は今、それをこの手で倒したのだ。ああ、その行為こそはまさに――
――――まさに、英雄的な行為だ。
放置すればアレは恐らく、別の相手を襲っただろう。それをさせずに殺した自分は、まさしく英雄と呼ぶに相応しい存在だ。
アレが色の具現化ならば、恐らく今後も現れる――そしてもしもそうなった時、その殺し方を知っているのは多分世界で自分だけ。
故に俺には怪物と戦い、人類を守る責務がある――それはなんて、なんて主人公的な役割だろう。唯一無二な役柄だろう。
「はは――ははははは!!」
笑いが止まらない。漸く相応しい役を得た事実に、喜び以外の感情が無い。
黒い血溜まりの中で、俺は延々と笑い続けた。
……色が一つこの世界から消えたことなど、全く気付きもしないままに。
〈終〉