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虐げられたアンネマリーの逆転劇

作者: 柚屋志宇

 ベルクヴァイン侯爵家の長女として生まれたアンネマリー。

 だがアンネマリーは今、屋根裏部屋に閉じ込められて繕い物の仕事をしている。


「明日の昼までに仕上げなさいよ!」


 義妹イルザは目を吊り上げ、美しい顔立ちを醜く歪めてアンネマリーを怒鳴りつけた。


「いい? 明日の昼までに出来なかったら食事抜きだからね!」

「で、でも、まだ、家政婦長に頼まれた繕い物が……」

「口答えするんじゃないわよ。アンタがここにいられるのは、アタシたちのお情けだってこと忘れたの?!」


 そしてイルザはいつものお決まりのセリフを言った。

 それはアンネマリーを服従させる呪文だ。


「嫌なら屋敷を出て行けば良いじゃない。さっさと出て行きなさい!」

「……」


 ベルクヴァイン侯爵家の令嬢だったアンネマリーは、生まれ育った屋敷を出て市井で一人で生きていくことなどできない。

 だから出て行けと言われても、アンネマリーは出て行くことができない。


 アンネマリーにとって屋敷から出て行くということは、生きていけなくなるということ、すなわち死を意味する。


「……」


 アンネマリーが黙ると、イルザはニンマリと笑った。


「追い出されたくなかったら、さっさと仕事をしなさい!」


 ――バタン!


 イルザは乱暴にドアを閉めて去って行った。


「……」


 アンネマリーは繕い物の山とイルザが置いていったドレスを見て、溜息を吐いた。


 アンネマリーは家政婦長に言いつけられた繕い物をしなければならない。

 それなのにイルザが置いていったドレスにレースを付けなければならない。

 しかも明日の昼までに。


(今日は眠れないかも……)


 アンネマリーはのろのろとした動作で、イルザが置いていったドレスを手に取った。



 ◆



 アンネマリーは最初から屋根裏部屋にいたわけではない。

 ベルクヴァイン侯爵家の長女として生まれたアンネマリーが屋根裏部屋に押し込められたのは、三か月ほど前だ。


 三か月ほど前にアンネマリーの母が亡くなった。

 アンネマリーがまだ母を失った悲しみに暮れているとき。

 父は突然、愛人だった平民の女性マヌエラを屋敷に迎え入れて後妻にした。

 後妻マヌエラには連れ子イルザがいて、イルザはアンネマリーの義妹になった。


 義妹イルザはアンネマリーの父に似ている。

 瞳の色も父と同じ色だ。


 美男子の父に似た顔立ちに、マヌエラと同じ金髪のイルザは華やかな美人だった。

 父とマヌエラとイルザの三人は、まるで家族のように見えた。


(イルザはお父様の子なのかしら……)


 アンネマリーとイルザの齢はたった半年しか違わないので、異母妹なのだとしたら、アンネマリーが母のお腹にいたときに父はもう浮気をしていたことになる。


 イルザは本当は異母妹ではないかという疑惑は、イルザの母である後妻マヌエラの言葉からも窺えた。


「本当はイルザが侯爵令嬢なのよ。アンタがイルザから侯爵令嬢の地位を奪ったの」


 後妻マヌエラはこの屋敷に来てすぐに、アンネマリーを憎々し気に睨んで言った。


「アタシが侯爵夫人になるはずだったんだから。アンタの母親が横恋慕して、汚い手を使ってアタシたちから全てを奪ったのよ」


(この人は何を言っているんだろう……)


 アンネマリーは内心で首を傾げた。


 アンネマリーの母はベルクヴァイン女侯爵で、ブラント伯爵家の四男だった父は婿養子だ。

 父が母ではなくマヌエラと結婚していたらおそらく平民になっていた。


「私もお母様も貴女たちから奪っていません。だって……」


 アンネマリーは説明しようとした。

 しかし……。


「お黙り! この盗っ人!」


 ――パシンッ!


「……っ!」


 マヌエラの平手がアンネマリーの顔に飛んできた。

 アンネマリーはマヌエラに頬を強く打たれた。


「……」


 暴力を振るわれてアンネマリーは口を閉じた。

 マヌエラは使用人たちに命令した。


「この生意気な娘には躾が必要よ! この娘を屋根裏に閉じ込めておきなさい!」


 家令ハンスと家政婦長マイヤー夫人はアンネマリーを庇い、後妻マヌエラのその命令に逆らった。

 後妻マヌエラはそれを父に告げ口した。

 父は家令ハンスと家政婦長マイヤー夫人を解雇した。

 それでこの屋敷には、後妻マヌエラに逆らう者はいなくなり、アンネマリーは屋根裏部屋に連れていかれた。



 ◆



 それまで貴族令嬢として暮らしていたアンネマリーの生活は、屋根裏部屋に押し込められて一変した。

 衣服は使用人が着古したボロボロの服。

 食事は一日二回、薄いスープと固いパンだけ。


 そして後妻マヌエラが雇った新しい家政婦長は、アンネマリーに針仕事を押し付けた。


(でも、あと少しの我慢だわ……)


 アンネマリーには希望があった。

 それは婚約者のクリストフだ。


 ベルクヴァイン侯爵家の一人娘だったアンネマリーは、ライナー伯爵家の三男クリストフと婚約していた。

 アンネマリーが十六歳になったら結婚して、クリストフは婿養子としてベルクヴァイン侯爵家に来ることになっている。


 アンネマリーが十六歳になるまで、あと三か月だ。


(クリストフと結婚したら、きっとこの辛い毎日は終わるわ)


 十三歳で婚約して以来、婚約者のクリストフとは定期的に会って親睦を深めていた。

 クリストフはいつもアンネマリーに優しかった。


 父は後妻マヌエラの言いなりになっていて、屋敷の中ではマヌエラの命令は絶対だ。

 もともと父はアンネマリーに無関心だったので、マヌエラやイルザのように積極的にアンネマリーを虐げることはしないが、助けることもしない。


 しかし他家との婚約は、後妻マヌエラの一存で反故にすることはできないはずだ。


(あと三か月。クリストフと結婚するまでの辛抱だわ)


 父や後妻や義妹に、アンネマリーの冷遇をやめるようにと、きっとクリストフが言ってくれるとアンネマリーは思った。


 結婚したらクリストフがこの屋敷に来てくれて、きっとアンネマリーを助けてくれる。

 アンネマリーはそう思っていた。


 しかしその希望は打ち砕かれた。



 ◆



「クリストフが!」

「はい。アンネマリー様にお話があるそうです」


 ライナー伯爵家のクリストフが来訪していて、アンネマリーと話をしたいと言っているから行くようにと、メイドはアンネマリーに告げた。


 そのメイドは後妻マヌエラが雇った新しいメイドで、いつもアンネマリーに意地悪な事を言うメイドだ。


「あの、私のドレスは……」


 屋根裏部屋に押し込められているアンネマリーには、使用人が着古したドレスしか与えられていないので、使用人よりも酷い格好をしている。

 とても客人の前に出られる格好ではない。


「知らないわ。アタシはアンタを呼んで来いと言われただけ。さあ立って、さっさと来なさい!」


 メイドは乱暴な調子でそう言い、アンネマリーを促した。


(こんな格好でクリストフに会うなんて……。でも私のこの格好を見たら、私の境遇を解ってくれて、すぐに助けてくれるかもしれない)


 みすぼらしい格好で婚約者クリストフに会わなければならないことには気が引けた。

 だがアンネマリーの酷い姿を見たら、酷い境遇にいることを察してくれて、もしかしたらクリストフがすぐに助けてくれるかもしれないと、アンネマリーは期待した。


 だがその期待はあっさり裏切られた。


「本当に酷い格好をしているんだな」


 クリストフはアンネマリーを見るなり、嫌そうに顔を顰めてそう言った。

 そこには義妹イルザもいて、クリストフはイルザの腰を抱いていた。

 まるで恋人同士のように。


「これは、お継母(かあ)様とイルザの命令で……」


 アンネマリーが酷い格好について説明しようとすると、クリストフは面倒臭そうにそれを制した。


「ああ、聞いたよ。君は新しい母親と妹を受け入れられず、虐められていると吹聴しているそうだね。これみよがしにわざと酷い格好をして、母親と妹に虐められているとみんなに言って回っているんだってね」


「わ、私は、そんなことしていません。私は部屋もドレスも、お継母(かあ)様とイルザに取り上げられてしまったんです!」


「お姉様、酷いわ!」


 イルザは瞳をうるうると潤ませて、泣きそうな顔をして言った。


「どうして私とお母様をそんなに悪く言うの?! 突然家族になれって言われて戸惑うのは仕方ないと思うわ。でもそんな格好までして、私たちを悪者にして、追い出そうなんて……!」


 さめざめと泣き始めたイルザを、クリストフは優しく慰めた。


「イルザ、可哀想に……」

「クリス……!」


 イルザはクリストフを愛称で呼び、しなだれかかった。


(……)


 まるで恋人同士のような距離で接触しているイルザとクリストフに、アンネマリーは呆然とした。


「アンネマリー、君には失望したよ」


 クリストフは険しい目つきでアンネマリーに言った。


「君のような虚言癖のある心の醜い女とは結婚したくない。君との婚約の解消を父に相談する。君の虚言癖と見苦しい行いを知れば、父もこの婚約を考え直してくれるだろう」

「この格好は、違います。ドレスがなくて……」

「黙れ!」


 アンネマリーの言葉をクリストフは遮った。


「もともと君みたいに地味でぱっとしない女と結婚するのは嫌だったんだ。こっちが我慢して下手に出ていれば調子に乗って……」


「……っ!」


 優しかったクリストフの豹変に、アンネマリーは愕然とした。


 いや、変わったのではなく、これがクリストフの本音なのだろう。

 今までクリストフはアンネマリーのことを婚約者として接待していただけで、本心では嫌いだったのだ。


「イルザを悪者にするために、そんなみすぼらしい格好までして被害者ぶるとは。なんて嫉妬深いんだ。イルザの美しさに嫉妬するのはいい加減にしろ。君は見た目だけではなく心まで醜い女だな。君のせいでイルザがどれだけ傷ついたか……」


 そしてクリストフは居丈高に言い放った。


「アンネマリー、君のような醜悪な女との婚約は破棄する!」


 頼りにしていた婚約者に、婚約破棄を突き付けられてアンネマリーは顔色を失い固まった。

 クリストフはアンネマリーの様子など気にも留めず、さめざめと泣いているイルザに蕩けるような優しい視線を落とした。


「僕はイルザと結婚する」


 クリストフがそう言うと、イルザは驚きの表情で顔を上げた。


「クリス……?」


 イルザのその表情はアンネマリーの目にはわざとらしく見えたが、クリストフには可愛く見えるらしい。

 クリストフは愛おしそうにエルザに熱い眼差しを向けた。


「イルザ、愛している。僕と結婚してくれるね?」

「クリス、嬉しい! ……でも私なんかで良いの?」


 イルザは恥ずかしそうにモジモジしながら満更でもなさそうな顔で言った。


「君が良いんだ。一目見たときから僕は君に夢中だった。なんて美しい人なんだろうと。一目惚れだった。あの日、僕は真実の愛を見つけてしまったんだ」

「わ、私も初めて会ったときからクリスのことが……」

「イルザ、結婚しよう!」

「はい!」


 クリストフとイルザは、アンネマリーの目の前でひしと抱き合った。

 

 クリストフの腕の中にいるイルザは、アンネマリーの様子をちらりと見て、勝ち誇るような笑みを浮かべた。


(……)


 アンネマリーは驚きと悲しみとの混沌の中で茫然としていた。


(……何を、見せられているのかしら……)


 頼みの綱だったクリストフに冷たく突き放されただけではなく、イルザとの仲睦まじい様子まで見せつけられ、クリストフがイルザに求婚する場にも立ち会ってしまった。

 クリストフはアンネマリーの婚約者だというのに。


 砂を吐きそうな気分だった。



 ◆



(……クリストフがイルザと結婚するだなんて……)


 屋根裏部屋に戻ったアンネマリーは、ベッドに倒れ込んだ。


 作業机の上には、今日の分の繕い物の山がある。

 今日中に仕上げなければ家政婦長にまた鞭で打たれるかもしれないが、もうどうでも良いような気分になった。


 頼りにしていた婚約者のクリストフにも裏切られ、アンネマリーはたった一つだけ残っていた希望すら失った。


(ベルクヴァイン侯爵家の血筋の私の婿養子になるより、平民のイルザとの結婚を望むなんて……。イルザは本当はお父様の子かもしれないけれど、正式にはイルザはお継母(かあ)様の連れ子でしかないから、ただの平民なのに……)


 クリストフは何故アンネマリーを捨ててイルザを選んだのか?

 アンネマリーはぼんやりと考えた。


(もしイルザがお父様の正式な養女になっていたとしても、イルザはベルクヴァイン侯爵家は継げないわ。だってベルクヴァイン侯爵家を継ぐのは長女の私だもの。それなのにどうしてクリストフはエルザを選んだの……?)


 クリストフはライナー伯爵家の三男なので爵位は継げない。

 爵位を継げる令嬢と結婚しなければ、クリストフは平民になって仕事をして生計を立てていくことになる。


 イルザはベルクヴァイン侯爵家の養女になっていたとしても、爵位はアンネマリーが継ぐので、イルザも貴族と結婚しなければ平民になる。


 もともと平民だったイルザは平民になることを厭わないかもしれないが。

 イルザが平民になるということは、イルザと結婚するクリストフも平民になるということだ。


(貴族の身分を捨てても良いほど、クリストフはイルザを愛しているの?)


 アンネマリーが知らないうちに、クリストフはイルザと親密になっていた。

 クリストフはアンネマリーの言葉は一切聞かず、イルザの嘘を全て信じていた。


(地味な私と違ってイルザが美人だから? もし私が美人だったらクリストフは私を裏切らなかったかしら?)


 この三か月でアンネマリーはイルザに何もかも奪われてしまった。

 アンネマリーは部屋もドレスも、ついには婚約者すらもイルザに奪われた。


(ベルクヴァイン侯爵家の血筋なんて意味ないのかもしれない)


 アンネマリーの母は女侯爵だったが、平民の美女マヌエラに夫を奪わた。

 アンネマリーは侯爵家の長女だったが、婚約者を平民の美少女イルザに奪われた。


(爵位より、美しさのほうが強いのね……)


 アンネマリーがベッドに突っ伏して思考の海に沈んでいると、ふいに、ドアがノックされた。


 ――コンコン。


「アンネマリー様、レナです」


 それは昔からいるメイドのレナの声だった。

 アンネマリーが侯爵令嬢として過ごしていたときに、アンネマリーの部屋付きだったメイドだ。


 レナは家政婦長の目を盗んで、たまにアンネマリーの屋根裏部屋に忍んで来ては、食べ物や日用品などを差し入れてくれ、何かと手助けしてくれていた。


「レナ……。どうぞ、入って」


 アンネマリーはそう返事をしながら、のろのろとベッドから起き上がった。


「アンネマリー様、時間がありませんので手短に言います」


 レナはアンネマリーの部屋に入ると、小声で言った。


「アンネマリー様、ここから逃げましょう」

「え?!」

「ハンス氏がルドヴィカ・ベルツ夫人とアーベル・アルトナー氏に連絡をとってくださいました」

「叔母様と大叔父様に?!」


 ハンスは後妻マヌエラに解雇された元家令、ルドヴィカ・ベルツはアンネマリーの叔母、アーベル・アルトナーはアンネマリーの大叔父だ。


「お二人が助力してくださいます。お嬢様、ここから逃げましょう」

「叔母様や大叔父様にご迷惑ではないかしら……?」


 叔母はアンネマリーの母の妹だが、平民の実業家と結婚した人で貴族社会からは身を引いていて、年に数回顔を合わせる程度だった。

 大叔父はアンネマリーの祖父の弟で、こちらも平民となった人で、祖父が他界してからは滅多に顔を合わせることがなくなった人だ。

 どちらも母方の親族だがそれほど親しいというわけではない。


「大丈夫です」


 レナは明るい笑顔で言った。


「ハンス氏が話をつけてくれています。お嬢様の今の生活を知ったベルツ夫人が、アルトナー氏に協力を仰いでくださって、お二人とも何としてもお嬢様を救出したいとお望みです」

「ここから、逃げ出せるの?!」

「はい。急ですが、今夜、消灯の後にお迎えにあがります。外套は私が用意しておきます。お嬢様は着の身着のままで結構です」

「解ったわ」


(もう、どうにでもなれだわ!)


 望みを全て断たれて絶望していたアンネマリーは、やけっぱちな気分で即座に決断した。


「屋敷を出て、叔母様と大叔父様のお世話になるわ。レナ、お願いね」

「はい、お嬢様。お任せください」


(叔母様や大叔父様にご迷惑をかけるのは気が引けるけれど。ここにこのまま居ても私にはどうにもできない)


 ――嫌なら屋敷を出て行けば良いじゃない。

 ――さっさと出て行きなさい!


 義妹イルザに何度も言われたその言葉に、アンネマリーは心の中で返答した。


(行くあてが出来たから、出て行くわね)



 ◆



「見つからないかしら……」

「大丈夫です。従僕や門番たちも協力してくれています」


 アンネマリーはメイドのレナの手引きで、夜陰に紛れて屋敷を抜け出した。


 レナの言う通り、昔からいる従僕が協力してくれて、アンネマリーとレナは使用人用の出入り口から外へ出ることが出来た。

 門番も協力者で、通用口を使わせてくれた。


 屋敷の外には馬車が待っていた。


「ハンス氏!」


 馬車には、後妻マヌエラに解雇された元家令ハンスがいて、アンネマリーを迎えた。


「お嬢様、よくぞご無事で!」


 メイドのレナに見送られて、アンネマリーは元家令ハンスと共に馬車に乗り、住み慣れたベルクヴァイン家の屋敷を後にした。


「あの後妻、マヌエラがお嬢様を虐待しようとしていたことを、ルドヴィカ・ベルツ夫人にご相談させていただきました」


 馬車の中で、アンネマリーは元家令ハンスから事の経緯を聞いた。


「ベルツ夫人はアンネマリー様との面会を何度も希望したのです。しかし、ベルクヴァイン氏からの返答は、お嬢様は母君を亡くされた失望から体調を崩されており『誰にも会いたくない』と言っている、とのことで……」


 ベルクヴァイン氏というのはアンネマリーの父だ。


「そこでベルツ夫人はアーベル・アルトナー氏に協力を仰いでくださいました。アルトナー氏もアンネマリー様との面会を一度希望しましたが、同じように断られました。そこでアルトナー氏の提案で、お嬢様を密かに救出することにしたのです」



 ◆



「アンネマリー、大変な目にあったわね。可哀想にこんなに痩せて……。もう大丈夫よ」


 アンネマリーは、王都にある叔母ルドヴィカ・ベルツの家に送り届けられた。

 正確には、叔母の夫である実業家ベルツ氏が所有する屋敷の一つだ。


 叔母ルドヴィカは、アンネマリーを温かく迎え入れてくれた。


 アンネマリーの母の妹である叔母ルドヴィカは明るく快活で、慎ましく物静かだったアンネマリーの母とは性格は全く違っていたが、顔立ちは似ていた。


 母に似た面差しのルドヴィカに優しい笑顔を向けられて、アンネマリーは懐かしいような、ほっとするような安堵を覚えた。


「すみません、叔母様。お世話になります」

「水臭いこと言わないの。困ったときはお互い様よ」

「ありがとうございます。でも……すみません」


 着の身着のままでベルクヴァイン侯爵家から逃げて来たアンネマリーは、全てを失ったので、叔母の親切に報いることができない。

 自分の身すら養えないのだから。


「私は、ご恩をお返しすることができそうになくて……」

「あら、返してもらうわよ?」


 叔母ルドヴィカは少し面白そうに笑った。


「ベルクヴァイン侯爵家が後ろ盾なら心強いもの。貴族絡みで私たちに何かあったときは、アンネマリーが私たちを助けてね」

「ごめんなさい、叔母様。お父様は私の言うことを聞いてくださいませんから、私ではお力になれそうもなくて……」

「何を言っているの?」


 叔母ルドヴィカは首を傾げた。


「まさか貴女、知らないの? 自分がベルクヴァイン女侯爵だってこと」

「……え?」

「アンネマリーがベルクヴァイン女侯爵なのよ」

「お母様の爵位は、お父様が継いだのではなかったのですか?」

「ベルクヴァイン侯爵家の血が一滴も入っていない婿養子にはベルクヴァイン侯爵家は継げないわ。爵位を継いだのはアンネマリーよ。トビアス・ベルクヴァインはただの代理人」


 トビアス・ベルクヴァインはアンネマリーの父だ。


「貴女がまだ子供だったから、貴女の父親が侯爵を代行しているの。でも、それももう、終わりよ……」


 すっと冷たい微笑を浮かべて叔母ルドヴィカは言った。


「たかが婿養子の分際でベルクヴァイン侯爵家を乗っ取ろうなんて。よくもやってくれたものね。きっちり報いを受けてもらうわ」



 ◆



「お父様が逮捕?!」


 栄養不足と過労でやせ細っていたアンネマリーは、叔母ルドヴィカの屋敷で手厚く介護され、元の健康を取り戻しつつあった。


 そしてアンネマリーが健康を取り戻すために休養して、食事をして、読書などをして数日ゆっくりと過ごしている間に、叔母や大叔父たちがベルクヴァイン侯爵家を取り戻した。


「トビアス・ベルクヴァインは侯爵家の乗っ取りを企てて、女侯爵であるアンネマリーを害したのですもの。当然逮捕よ」


 叔母ルドヴィカはここ数日の顛末を語った。


 アンネマリーがベルクヴァイン侯爵家を脱出した後。

 大叔父アーベル・アルトナーとその家族たちが中心になって、ベルクヴァイン侯爵を代行しているアンネマリーの父トビアス・ベルクヴァインを告発した。


 それにより、父トビアス・ベルクヴァイン、後妻マヌエラ、義妹イルザの三人は逮捕された。

 マヌエラが雇った家令や家政婦長やメイドたちも逮捕されたという。


 罪状は侯爵家の簒奪未遂。

 そして女侯爵アンネマリーを監禁、虐待した罪だ。


「社交界では今、その話題でもちきりなんですって」


 叔母は楽しそうに笑った。


 社交界の話題は大叔父アーベル・アルトナーの家族たちがもたらしてくれる。

 大叔父アルトナーの息子や娘たちは貴族の子女と結婚していたので、社交界に伝手が多いのだ。


「三大公爵家もアンネマリーの味方よ」

「公爵家が?!」

「ええ、そうよ。この分だと、後妻とその娘は死刑になるわね。使用人たちも極刑よ。家令と家政婦長も死刑になるかしら」


「え、死刑……?!」


 刑罰があまりに重く、アンネマリーは驚いた。


 アンネマリーは後妻マヌエラも義妹イルザも嫌いだ。


 マヌエラはアンネマリーに暴力を振るい、アンネマリーを屋根裏部屋に閉じ込めた。

 そして家政婦長に命令してアンネマリーに針仕事をさせ、ときどき鞭打った。


 義妹イルザはアンネマリーの部屋とドレスを奪い、婚約者も奪った。


 マヌエラが雇った新しい家令も家政婦長もメイドたちも、アンネマリーに辛く当たったので嫌いだった。


 逮捕されたと聞いて、正直ほっとした。

 そのくらい嫌いだ。


 だが死刑という重い刑罰を聞いて、素直に喜べなくなった。


 彼女たちが行ったことは許せるものではない。

 だが果たして、命をもってして贖うほどの罪だろうか。


 義妹イルザはアンネマリーに特にちょっかいを出して来て、アンネマリーを罵倒して、仕事を押し付けて、食事抜きを命じて、アンネマリーに濡れ衣を着せて婚約者も奪った。

 だが死刑にされるほどの罪だろうか。


「叔母様、私は、殺されるほどのことはされていません。酷い待遇でしたが、死ぬほどではありませんでした。暴力は受けましたが、大した怪我もしていません。それなのに死刑になるなんて、刑罰が重すぎます。なんとか罰を軽くしてあげられないでしょうか」


 アンネマリーは被害者だ。

 被害者が許せば、彼女らの罪が軽くなるのではないかと思った。


「私は、彼女たちがベルクヴァイン侯爵家から出て行ってくれるなら、それで良いのです。二度と目の前に現れないでいてくれるなら、私はそれで満足です。報復なんて望んでいません。まして死刑なんて……」


「アンネマリー、貴女は何か勘違いをしているわ。貴女のために彼女らを死刑にするんじゃないのよ?」


 叔母は皮肉っぽい笑みを口の端に浮かべた。


「あの人たちはね、平民の分際で貴族を害したの。身分制度社会に喧嘩を売ったのよ」

「身分制度社会に、ですか?」

「そうよ。アンネマリーに同情している人はもちろんいるわ。でも貴族たちが憤っている肝の部分は、アンネマリーが虐待されたことじゃないの。平民が貴族を害したことに彼らは憤っているの。あの頭の悪い後妻たちは、王侯貴族全員を敵に回したのよ。公爵様たちは貴族たちの筆頭として、罪人たちの罰を重くするようにと激しく主張なさっているの」


 叔母は淡々と説明をした。


「貴族を害しても、罰が軽ければ、他にも変な気を起こす平民が出て来るかもしれないでしょう? 貴族を監禁してお家乗っ取りを企てても、軽い罰ですむなら、大勢の平民たちが貴族家の乗っ取りに挑戦するようになるわ」

「そ、そんなことになるでしょうか?」


 叔母が語る未来が信じられずアンネマリーは問い返したが、叔母は自信たっぷりといった態度で応えた。


「なるわよ。リスクが小さいわりに成功した見返りが大きいとなれば、流行るわ。道端で掏摸(スリ)や強盗をするより、よほど簡単でよほど稼げる犯罪になるわ。罰が軽ければ失敗しても安心だもの。何度でもチャレンジできる」

「そ、そこまで、する人がいるでしょうか」

「いるわよ。箱入り娘の貴女は知らないでしょうけれど、世の中には犯罪が溢れているのよ。毎月、何件の強盗事件があるか知ってる? 場所によっては毎日強盗事件が起きてるのよ?」

「……」


 アンネマリーは言い返す言葉がなくなった。


「平民が貴族を害したらどうなるか、見せしめのためにも、厳しく罰する必要があるの。今後、平民が変な気を起こさないようにね」


「お父様は……貴族だから罰が軽くなるのでしょうか?」

「……()()にはならないと思うわ」


 叔母は少し含みのある笑みを浮かべたが、アンネマリーはその違和感には気づけなかった。


(イルザが死刑になったら……クリストフは悲しむでしょうね)


 かつての婚約者クリストフが義妹イルザと結婚すると宣言していた日のことを、アンネマリーは思い出していた。


 目の前でクリストフとイルザが抱き合って愛を語り始めたので、アンネマリーが砂を吐きそうな最悪な気分になった日のことだ。


(あの二人を応援する気なんて全然無いけれど。死刑によって引き裂かれるのはさすがに気の毒だわ)


 アンネマリーは婚約者だったライナー伯爵令息クリストフという人間を全く理解しておらず、今でも誤解していた。

 それにアンネマリーが気付くのは、デビュタント舞踏会でクリストフに再会した時だ。



 ◆



「アンネマリー、久しぶり」

「クリストフ?!」


 アンネマリーはデビュタント舞踏会に参加した。


 それより少し前に、アンネマリーは女侯爵として国王から爵位授与を受けていたので厳密にはデビュタントではないが。

 アンネマリーは同い年の令嬢たちと同じく、デビュタントの白いドレスにに身を包み舞踏会に参加した。

 エスコート役はヴォーリッツ伯爵令息テオフィルが引き受けてくれた。

 テオフィルは大叔父アーベル・アルトナーの外孫で、アンネマリーの遠縁だ。


 ベルクヴァイン侯爵家乗っ取り事件は社交界で大きな話題となったため、ベルクヴァイン女侯爵となったアンネマリーは注目を浴び、大勢の貴族たちに話しかけられることになった

 国王からは、他のデビュタントたちより長いお言葉を賜った。


 そしてアンネマリーがテオフィルとダンスを一曲踊り終わり、休憩をしようと人だかりから離れたところ。

 いきなり、かつての婚約者ライナー伯爵令息クリストフに声を掛けられた。


「アンネマリー、とても綺麗だよ」


(……)


 かつてアンネマリーに「地味でぱっとしない」だの「見た目だけではなく心まで醜い女」だの「醜悪」だのと言ったクリストフの口が、今日はアンネマリーに「綺麗だよ」と言った。


 クリストフの本心を知っているアンネマリーは残念な気分になったが、社交辞令を返した。


「ありがとうございます、ライナー伯爵令息。貴方もとても素敵ですね」


 つい台本を読むように平坦な口調になってしまったが、アンネマリーは礼儀として笑顔でお世辞を返した。


「アンネマリー、君にずっと謝罪がしたかった。あのときは、その、すまなかった。僕はイルザにすっかり騙されていたんだ」

「そうですか。ご丁寧にありがとうございます」

「アンネマリー、二人で話がしたいんだが……」


 そう言いクリストフは、アンネマリーのエスコートをしているテオフィルをちらりと見た。


「申し訳ありませんが、ライナー伯爵令息……」


 アンネマリーは淡々と断った。


「未婚の身で男性と二人きりになるなど、とんでもないことです。お断りいたします」

「そ、その男とは二人でいるじゃないか!」


 クリストフがそう言うと、テオフィルは涼しい顔をして応じた。


「失礼ながら、ライナー伯爵令息、私は彼女の親戚です。彼女の叔母上や大叔父に頼まれて彼女をエスコートしています。ライナー伯爵令息が彼女と二人で話がしたいというのであれば、彼女の親族の許可を得るところから始めるべきでしょう」

「……っ!」


 クリストフは嫌そうに顔を歪めた。


「わ、解った。ヴォーリッツ伯爵令息が一緒でかまわない。アンネマリー……」


 そしてクリストフは、吃驚するようなことを言いだした。


「僕との婚約を解消するってどういうことだ!」


 アンネマリーとクリストフの婚約はまだ解消されていなかった。

 だからベルクヴァイン侯爵代行だった父からアンネマリーは当主の権限を返却して貰うと、すぐにライナー伯爵家にクリストフとの婚約解消の打診をした。


「どういうことって……。婚約を解消するという意味です」


 何故そんな当たり前のことを訊かれるのかアンネマリーは解らなかったが、普通に答えた。


「まだあのときの事を怒っているのか? 僕はイルザに騙されていたんだ。君に不愉快な思いをさせたことは悪かったと思ってる。でも悪いのはイルザだ。僕は騙されていたんだ」


「……でも貴方は、私の目の前で、イルザと抱き合っていましたよね?」


 アンネマリーがそう言うと、隣で黙って聞いていたテオフィルがプッと小さく噴き出した。

 クリストフはあたふたとして弁明を始める。


「ご、誤解だ! 僕はイルザにすっかり騙されていたんだ!」

「貴方はイルザのことを愛しているとおっしゃっていたではありませんか」

「僕はあの女に誑かされていたんだ!」

「貴方はイルザを一目見て恋に落ちたっておっしゃっていました。一目惚れって、騙す騙さない以前の話でしょう?」

「ち、違う! 誤解だ!」

「貴方は私の目の前で、イルザと結婚の約束をしていましたよね?」

「だから、騙されていたんだ! あんな犯罪者と結婚するわけないだろう!」

「愛していたのでは?」

「あの女の嘘に僕は騙されていたんだ! 僕が愛しているのは、アンネマリー、君だけだ!」


「……」


(……呆れた……)


 あまりに鮮やかな掌返しを見せられ、アンネマリーは一瞬呆然とした。


 かつてクリストフはアンネマリーの目の前で、イルザに愛を語り、イルザを抱きしめ、イルザに求婚していたのに。


「牢に入っているイルザに会いに行きましたか?」


 アンネマリーは何となく答えを予測できたが、一応クリストフに訊いてみた。


「犯罪者になど、会いに行くわけないだろう」


(無責任で薄情な人……)


 過日、クリストフはアンネマリーに優しかった。

 だがアンネマリーが屋根裏部屋に押し込められると、クリストフはイルザと仲睦まじくなってイルザに愛を囁いた。

 アンネマリーはそれは、クリストフが本心ではアンネマリーを嫌っていたせいだと思った。


 だがイルザが逮捕されると、クリストフは今度はイルザを悪し様に言い、自分が一目惚れして自分が求婚したことまでイルザのせいだとして罪をなすりつけようとしている。

 そして今度はアンネマリーに、綺麗だとか愛しているとか言い出した。


「ライナー伯爵令息、貴方は、私みたいな『地味でぱっとしない女と結婚するのは嫌だった』っておっしゃっていましたよね」

「そ、それは、違う!」

「ご無理なさる必要はありませんのよ。私も貴方との結婚は望んでおりませんから」

「嘘を言うな。君は僕のことを……」


 クリストフはそう言いかけ、ふと、何かに気付いたかのように、急に言葉を切った。

 そして今まであたふたしていたクリストフの顔に、余裕の微笑みが広がりはじめた。


「解ったぞ、アンネマリー。すねているんだな?」


 クリストフは自信たっぷりの笑みを浮かべてそう言った。


「僕がイルザに騙されてしまって、彼女とちょっと仲良くしたから、すねているんだろう。婚約解消だなんて言って、僕の気を引こうとしているんだな」

「……」


 あまりにも奇想天外なことを聞かされ、アンネマリーは絶句した。

 また砂を吐きそうな気分になった。


「……ライナー伯爵令息、貴方との婚約を解消したいから、私はライナー伯爵家に婚約の解消を打診しているのです。もともと婚約破棄を言い出したのはライナー伯爵令息です」

「あれは間違いだったんだ!」

「ご自分の発言に責任を持ってくださいませ。さらに貴方はイルザとも不埒な関係にあり、それを私に見せつけ、婚約者である私の目の前で貴方はイルザに求婚しました。婚約の解消をするには充分な理由でしょう」

「ふん、脅しのつもりか? 素直になったらどうだ。君が素直になってくれれば、僕だって君に優しくできる」


「もし婚約の解消に応じていただけない場合は、こちらから……」


 ベルクヴァイン女侯爵アンネマリーは淡々と告げた。


「婚約破棄します」



 ◆



 アンネマリーはクリストフとの婚約を破棄した。

 ライナー伯爵に婚約の継続を頼み込まれ、慰謝料も提示されたが、アンネマリーはそれらを却下した。


(クリストフとはもう関わり合いになりたくない。あの人、嘘吐きだもの)


 ライナー伯爵家がアンネマリーとの婚約継続を望んだのは、もちろんベルクヴァイン侯爵家と縁をつなげたいということもあるだろうが、それ以上に、醜聞に悩んでいたからだ。


 ライナー伯爵家の三男クリストフは、ベルクヴァイン侯爵家乗っ取り事件の容疑者の一人として身柄を拘束され、取り調べを受けた。

 クリストフはアンネマリーの婚約者でありながら、罪人イルザと恋仲になっていたからだ。

 だがクリストフは平民ではなくライナー伯爵家の三男だったことと、アンネマリーに婚約破棄をしたいと発言したのみで、実際には婚約は継続されたままだったので釈放された。


 しかしクリストフがアンネマリーの婚約者でありながら、罪人イルザと恋仲になり、イルザと一緒にアンネマリーを虐げたことが社交界で噂になった。

 この噂を流したのは、大叔父アベール・アルトナーの家族たちを始めとするアンネマリーの親族たちだ。


 そのためライナー伯爵家は立場が危うくなっていた。

 ここでアンネマリーと婚約解消をしようものなら、クリストフが罪人イルザと恋仲になっていた噂を肯定することになる。

 すなわち、クリストフは貴族を害した平民の側についていたという噂が肯定されてしまう。

 それはすべての貴族を敵に回すような醜聞だった。


 そしてクリストフは、アンネマリーに婚約破棄された。


 クリストフの実家ライナー伯爵家は、アンネマリーの父の実家ブラント伯爵家とともに社交界で爪はじきにされることになった。



 ◆



「父から手紙が?」


 ベルクヴァイン侯爵家乗っ取り事件の実行犯、後妻マヌエラとその連れ子イルザは公開処刑となることが決まった。

 マヌエラの縁故で雇われた家令と家政婦長も公開処刑が決まった。


 マヌエラの縁故で雇われたメイドたちには懲役十五年が科せられることが決まった。

 懲役は強制労働のある刑罰だ。


 ベルクヴァイン侯爵家乗っ取り事件の主犯、侯爵代行だったアンネマリーの父トビアス・ベルクヴァインには禁固二十年が言い渡された。

 トビアスの実家ブラント伯爵家は、トビアスの処刑を望んだが叶わなかった。


「父が私に手紙を書くなんて……。私のことずっと無視していたのに……」


 マヌエラとイルザの処刑が決まると、アンネマリーの元に、貴族牢に入った父トビアス・ベルクヴァインから手紙が届いた。

 手紙にはマヌエラとイルザの命を助けてやって欲しいということと、アンネマリーと会って話がしたい旨が書かれていた。


「今更ですよね……」


 アンネマリーがぼやくと、叔母ルドヴィカは爽やかな笑顔で言った。


「行く必要ないわよ。自業自得なのだから放っておきなさい」

「……会いにいってみようと思います」

「今更、情がわいたの? あの男は保身を考えてベルクヴァイン女侯爵に頼みごとをしたいだけで、貴女に情なんか持っていないわよ」

「父が私に情を持っていないことは解っています。でも、父に、伝えたいことがあるんです」



 ◆



 アンネマリーは父に会うために、貴族牢へ行った。

 貴族牢の面会室で、鉄格子をはさんで父と向かい合った。


「マヌエラとイルザを助けてやってくれ。せめて命だけでも……」


 そう言う父に、アンネマリーは冷たく言い返した。


「私の話は聞いてくれたこともないくせに? 自分の話は聞いて欲しいというの?」

「そ、それは、忙しくて……」

「愛人と遊ぶのに忙しくて?」

「ち、違う! いや、悪かった。反省している。これからはお前ときちんと向き合って話をする」

「もう必要ないわ」

「お前が怒るのは当然だ。だがこれは人の命がかかっていることだ。大事な話だ」


 必死の形相でそう言う父に、アンネマリーはコテンと首を傾げてみせた。


「私がマヌエラさんに打たれたり、屋根裏に押し込められて家政婦長に鞭打たれたりしたのは、聞く価値のないささいな事だったと言うのね?」

「アンネマリー、私が悪かった! すまない! 謝る!」

「口先だけの謝罪なんていらないわ。結構よ」

「本当に反省している。でもお前は生きているじゃないか。マヌエラとイルザは命がかかっているんだぞ」

「私には関係ないわ。お父様が私のことなんかどうでも良いと思っていたのと同じくらい、私にはマヌエラさんとイルザさんのことなんてどうでも良い事よ」

「イルザはお前の実の妹だ!」

「だから何?」

「妹が死んでしまうんだぞ!」

「私がお母様のお腹にいるときに、お父様が浮気して出来た子が死んでしまう? それで?」

「お前はどうしてそんなに冷たいんだ!」

「あら、お父様ほど冷たくないわよ?」


 アンネマリーは淡々と言った。


「マヌエラさんとイルザさんはお父様のせいで処刑されるんですもの」

「ふざけたことを言うな!」

「お父様が侯爵家にマヌエラさんとイルザさんを連れて来たりしなければ、今でもマヌエラさんとイルザさんは元気に暮らしていたのではなくて?」

「……もっと良い暮らしをさせてやりたかったんだ。こんなことになるんて……」

「侯爵夫人にしてやるなんて、嘘を吐いてまで?」


 マヌエラは後妻として侯爵家に来たが、アンネマリーの父トビアスはマヌエラと結婚していなかった。

 それはそうだろう。

 貴族と平民の結婚は認められない。

 父が侯爵代行をやめてベルクヴァイン侯爵家を出れば、平民としてマヌエラと結婚できた。

 だが父はそれをしなかった。

 父は侯爵代行のままでマヌエラとイルザと暮らすことを選んだ。

 両方の美味しい部分を手にいれようとしたのだ。


 その結果、マヌエラは自分が侯爵夫人になったと信じていたが、侯爵代行の愛人でしかなかった。


「マヌエラさんが調子に乗ったのはお父様のせいでしょう」

「まさかあんなことをするなんて思っていなかったんだ!」

「あら? ハンスから報告を聞いたはずよね」


 ハンスはベルクヴァイン侯爵家の元家令だ。


「報告をしたハンスを、お父様は解雇してしまったけれど」

「そ、それは……」

「お父様がマヌエラさんとイルザさんを死地に連れて来たのよ。平民の分をわきまえて慎ましく暮らしていれば、侯爵家のお金でそれなりに優雅に暮らしていられたものを……」


 アンネマリーは、父に伝えたかったことを伝えた。


「お父様のせいで、マヌエラさんとイルザさんは処刑されるの」



 ◆



 貴族牢に入ったトビアス・ベルクヴァインが、病死したと発表された。


「病死は建前ですよね?」


 アンネマリーがそう問いかけると、叔母ルドヴィカは微笑んだ。


「そうねえ。これは独り言なのだけれど、そういえばブラント伯爵は一族の面汚しであるトビアスの処刑を強く望んでいたわねえ」

「じゃあきっと病死ですね」

「そうよ、病死よ」



 ◆



「ルドヴィカ・ベルツ夫人がいらっしゃいました」

居間(パーラー)にお通しして」


 ベルクヴァイン女侯爵としてアンネマリーは忙しい日々を送ることとなった。

 そんなアンネマリーを、叔母ルドヴィカは頻繁に訪ねて来る。


「様子を見にきたの。調子はどうかしら?」

「いつも通り何とかやっています。ハンス氏やマイヤー夫人がいてくれるので」

「それは良かったわ。ところでお見合いの話があるの」

「またですか……」


 このところ叔母が頻繁にアンネマリーを訪ねている理由は、アンネマリーに見合い話を持ってくるためだった。

 大叔父アベール・アルトナーたちが探して来た婿候補を、アンネマリーに打診するのが叔母ルドヴィカの役目だった。


「結婚は今はまだする気になれません、と、大叔父様たちにお伝えください」


 元婚約者のクリストフの不誠実さ、その変わり身の早さを見たことで、アンネマリーは男性不信になっていた。


 ちなみにクリストフは、ライナー伯爵家から除籍されて平民になった。

 クリストフが今はどこで何をしているのかアンネマリーは知らない。

 興味がないから。


「世の中あんなクズばかりじゃないのよ? アンネマリーはクジ運が悪かったの。素敵な男性だっているわ。ねえ、会うだけ会ってみない?」


 叔母はひとしきり、今回持って来た見合い相手の令息の宣伝をした。


「叔母様や大叔父様は侯爵になろうと思わないのですか? 私より叔母様たちのほうがよほど侯爵にふさわしいと思うのですが」


 叔母とのおしゃべりを楽しんでいたアンネマリーは、ふと、叔母に尋ねてみた。

 アンネマリーより、叔母や大叔父たちのほうがよほど侯爵に向いているように思ったからだ。


 叔母ルドヴィカも大叔父アーベル・アルトナーも侯爵家直系だ。

 爵位を継ごうと思えば継げる血筋だった。


「アーベル叔父様は今更侯爵なんてやりたくないんじゃない? 事業で成功なさっているし、貴族の伝手も充分持っていらっしゃるもの」

「そうなのですか?」


 親族たちの事情を今まであまり知らなかったアンネマリーが首を傾げると、叔母ルドヴィカは説明してくれた。


 資産家の娘と結婚した大叔父アーベル・アルトナーは事業で成功した。

 またアーベル・アルトナーの息子や娘たちは貴族の子女と結婚しているので、ベルクヴァイン侯爵家以外の貴族にも伝手がある。


「アーベル叔父様はお金も地位も伝手もお持ちだもの。この上、わざわざ自分が侯爵になろうなんて思わないわよ。侯爵位は誰かに任せて、後ろ盾になってもらえたほうがラクができるって思っているわよ?」

「そうなのですか?」

「きっとそうよ。私がそうだもの」


 叔母ルドヴィカは面白そうに笑った。


「私は自由に生きたかったのよ。お金さえあれば、貴族より平民のほうがよほど自由に暮らせるのよ」

「平民の生活は大変だと聞きましたが……」

「それは貧しい平民よ。お金がある平民は貴族より悠々自適に暮らしているわよ」


 明るく快活な叔母ルドヴィカは得意気に平民の自由を謳うと、眉を下げて貴族の不自由を語った。


「それに引き換え、貴族は年中、堅苦しい式典に強制参加させられて、表面上のお付き合いに時間の大半を持っていかれるわ。家の体面を保たなきゃいけないから大変よ。まあ、名誉ではあるけれど。私は名誉よりも自分が楽しく暮らせるかどうかのほうが大事だったの」


 叔母ルドヴィカはアンネマリーににっこりと微笑みかけると、悪びれずに言った。


「アンネマリーに侯爵家を任せるのは申し訳ないとは思っているわ。でもその代わりいつでも力になるから、許してね。私たちは家族なのだから困ったことがあったら何でも相談してちょうだい」


「……平民になったあの男は、悠々自適に暮らしているのでしょうか」


 アンネマリーが言う『平民になったあの男』とは、ライナー伯爵家から除籍されて平民になった元婚約者クリストフのことだ。


「お金があればの話よ。悠々自適に暮らせるのはお金がある平民。ライナー伯爵家はあの男に働き口は与えたけれど、金銭援助はしていないから、生活は厳しいと思うわ」

「それなら良かったです」


 アンネマリーはうんうんと頷いた。


「ところでお見合いの話だけれど……」

「はあ……」

「もう、アンネマリーったらやる気がないわね。アンネマリーはモテるんだから選び放題なのに」

「私が女侯爵だから、爵位目当ての方々にモテてるんですよね?」

「アンネマリーが美人だからモテるのよ」


「……」


 アンネマリーは悟りの境地に至った僧侶のような静謐な表情を浮かべた。


「……」

「アンネマリーったら、信じていないわね?」

「私は地味でぱっとしない女なので」

「何を言っているの。自分を卑下するのはおよしなさい。貴女は美人よ」


 叔母は息巻いてアンネマリーに反論して来た。


「アンネマリーは母親似よ。私の姉に似ているの。私と姉も似ているの。つまりアンネマリーは私と似ているのよ?」


 叔母は堂々と言い放った。


「私に似ているんだから、美人に決まっているじゃない」


「……そうですね……。叔母様が羨ましいです……」


「美人なのだから堂々としていなさいな。ベルクヴァイン侯爵家の威光と財力で最上のドレスを仕立てて、最高の宝石を身に着けて、皆の目を眩ませておやりなさい」

「権力と財力の力を借りて輝くんですね」

「身分や財産だって立派な魅力よ。見せつけてやれば良いわ。夜会は戦場よ。来月の公爵家の夜会には出席するのでしょう?」

「はい」

「エスコートは誰に頼むの?」

「テオフィルがエスコートしてくれることになっています」

「もうテオフィルと結婚してしまえば?」

「そんな、雑な……」


 アンネマリーはこうして叔母と他愛のないおしゃべりをする時間が好きだ。

 前向きな叔母とおしゃべりをしていると、深刻に悩んでいることが馬鹿々々しく思えて来て心がだんだん軽くなる。


「叔母様って本当に自由ですよね」

「あら」


 叔母はあっけらかんとして言った。


「アンネマリーだって自由よ」






 ――完――


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― 新着の感想 ―
一番イラっとするポイントである、私はそこまで望んでいませんから死刑にするほどでもないのでは。と甘ちゃん罪悪感に潰されて要は人を殺す覚悟がない主人公の優しさアピール大嫌いなので >貴女は何か勘違いをし…
よくある「かわいそうだから命だけは助けてあげて!」というお花畑ムーブをばっさり切り捨てたのは痛快でした! 法と秩序を司る立場である貴族の一員でありながら、自分が嫌な思いをしたくないと言う身勝手な理由で…
爵位に関して、全部が愛した男の嘘だったと知った義母親子の視点が読みたかったです。 父親は間接的加害者であり、直接加害したのはこの親子なので、彼女達の絶望が見たかったな、と。
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