54. 記憶を超えて
月の神殿。
静寂のなか、セレフィーナの涙がぽたぽたと、床に落ちる。
その瞬間、記憶の扉が銀の光となって砕け、粒となり、空へと舞い上がっていった。
「セレフィーナ、全てを思い出したのね」
月の女神が、静かに囁く。声は風のように優しく、そして、深い闇を知る者の響きを宿していた。
「ええ…女神であった頃の記憶も、この呪いのはじまりも…すべて」
「そして今、貴女はどうする?」
セレフィーナは、そっと目を閉じ、胸に手をあてた。
「この呪いの連鎖を、私が終わらせる。それが――私の責任だから」
「ならば教えましょう。魔王について、貴女が知らぬことを」
月の女神の瞳に、遠い時の記憶が宿る。
「魔王は愛を知っていた。でも、その愛は絶望に喰われ、憎しみと呪いに変わったの。――愛ゆえに、強き者も壊れることがあるのよ、セレフィーナ」
静寂が落ちる。夜のような、深く長い静寂。
「……それでも」
「ええ、その呪いすら赦した貴女なら、どうにかできるかもしれないわね」
「…今の私には愛し、愛された記憶がある…」
「ええ。知っているわ。王子達が貴女の力になってくれるでしょう」
「でも、それでも…やっぱり確かめたいことがあるの。この迷いを抱えたままでは、呪と、魔王と、向き合えない気がするの」
「そうね。もう一度、貴女に愛を教えてくれた彼らに会って、対話してきなさい。しっかり、貴女の言葉で」
「四人の王子たちに、会いに行きます」
その声にはもう、迷いはなかった。
「彼らは、私の過去を映す鏡。でも今度は、女神としてではなく、“私”として、彼らと向き合いたいの」
「…強くなったわね、セレフィーナ」
「どんな言葉が返ってこようと、恐れはしないわ。
私は逃げない。赦しも、罰も、愛も――私が選ぶ」
月の女神は何も言わなかった。ただ微笑み、そっと目を閉じた。
四つの運命――愛し、許し、別れ、そして進むために、セレフィーナは、光と闇を越えて、再び歩き出す決意を固めた。
「セレフィーナ、貴女にこれを授けましょう」
月の女神がそっと差し出したのは、琥珀色に光る月のネックレスだった。
「これは…?」
「――迷える者を導くネックレスよ。魂の奥に宿る“祈り”に応え、光の道を開く。今の貴女には、これを使う資格がある」
「………」
セレフィーナはそれを静かに受け取ると、手のひらで琥珀色の月を握り、願いをこめた。
(お願い、もう一度、彼らに会いたいの。)
セレフィーナの身体が、その光に優しく包まれていく。
風が巻き起こり、彼女の髪と衣をふわりと舞い上げる。
彼女の女神としての力と、祈りが共鳴しあうように、その光は静かに、だが確かに時空を越え、彼女の意志を運んでいく。
「――さあ、お行きなさい」
月の女神の声が最後に響いた。
「貴女の心が選んだ者たちのもとへ。もう一度、“彼らの名”を呼ぶために」
そしてセレフィーナは、眩い月光に包まれながら姿を消す。
再び始まる呪われし乙女の旅。
けれど今度は、記憶を持ち、愛を知る彼女自身として。
そしてそれは、女神としてではなく、「セレフィーナ」という一人の女性が、本当の愛を選ぶための旅の始まりだった。