迷宮の主
走っていても下の階から振動が伝わってくるのが分かる。
幸いなことにボスの部屋に着くまで大量にいた魔物たちと一匹も遭遇していない。ボスを恐れてどこかに隠れているのだろう。
ボスとは何層か離れているようで度々聞こえる咆哮はそんなに大きくはない。
せっかくここまで来て何も手に入れられないなんて…。
というかこのボスが討伐されるまで誰もこの迷宮に入ることすらできないだろう。すごく申し訳ない。
後ろで何かが爆ぜる音が聞こえ、吹き飛ばされる。
起き上がって後ろを振り返ると、地面に大きな穴ができていた。その穴から大きな魔物の手が現れる。
慌てて上層への階段までの道のりを進んでいく。
通路から体中に響く咆哮が聞こえた。間違いなくボスだ。
突然重いなにかが背中にぶつかり、吹き飛ばされる。
全身が痛みを訴えるのを無視して、すぐに立ち上がる。
振り返ったときには、さっきまであった壁はなくなり、代わりに赤いヒョウのような魔物がいた。
先の尖った大きな牙、鋼鉄のように輝く体毛、こちらを見つめる緑色の鋭い目。絶望の塊のような存在感を放っていた。
体を震わせながらも、ボスに背を向けて走り出す。自分でも制御しきれないような速さでがむしゃらに逃げる。
背後から地面を蹴る重い音がする。この速度にあのボスは追いついてきている。その事実にただただ意味が分からなかった。
上の階層への階段を何段も飛ばして勢いよく駆け上がる。後ろの気配は少しも離れてくれない。
さらに速度を上げる。体を壁にぶつけて、壁を蹴ってなんとか曲がりきる。ぶつける度に痛みが全身を襲う。それでも突き進む。
背中に衝撃が走ったと思った次の瞬間には顔から壁にぶつかり、そのまま落ちる。
立ち上がろうとしたがバランスがうまく取れず、背中から倒れる。
ボスが俺を見下ろしていた。
「うおおおおおおおおお」
声を絞り出してなんとか立ち上がろうとするも、もう足には力が入らなかった。
なんでだ。逃げることだけが取り柄だっただろうが。それすらもできないのか!
こんなスキルでも強い冒険者になれるんだって証明したかったんだ。アークエリオンにだってなれるって。
俺は村に来た行商人から聞いた冒険者たちの話に心躍らせていた。その中でもアークエリオンと呼ばれる歴史的な功績を残した冒険者たちの英雄譚は格別だった。
そんな話を聞くうちにいつしか冒険者を志すようになった。
自分も強いスキルを手に入れて活躍するんだと夢に見ていた。
その期待を裏切る自分のスキルを知ったときはショックだった。逃げるなんて冒険者のすることじゃないと。それでも憧れは自分の中から消えることはなく、ずっと残り続けてここまで来た。
まだ何もできていない。剣も手に入れてない。家族も救えてない。冒険者ランクだって低いまま。
俺の顔を見て愉快そうに尻尾をゆらゆらと揺らす。前足を上から振り下ろす。
「死んでたまるかああああああ!」
短剣を抜き、受け止めようとするが、剣は折れて胸が切り裂かれる。
ボスは俺を嚙み砕こうと口を大きく開けて近づくも、もはや抵抗する力も残っていなかった。
突然ボスの頭が地面に落下した。
え?
「危ないところだったね。私が来てなかったら死んでたよ、間違いなく」
ボスから魔力の光が出ていった。
右を見ると剣を持った女性が立っていた。
すぐに俺に近づいて頬に触れるとさっきまでの痛みがなくなり、胸の傷もなくなっていた。
「あ、ありがとうございます。あなたの名前は?」
「私はカミラ・エレイン。君は?」
「シック・ニーゲです」
この人あのボスをたったの一撃で倒したのか!?なんて強さだ。
「パーティメンバーはどこにいるの?その子たちも危険な状態でしょ?」
「一人で迷宮に来たんです。だからパーティメンバーはいません」
「ん?君そんなに強く見えないけど、ここまで単独で来てボスと戦おうとしてたの?転移でもしてきたの?」
エレインさんが不思議そうな顔で質問を投げかけてきた。
「いえ、俺のスキルは逃げるのに特化しただけのものです。それに伝説の剣が欲しかっただけでボスとは戦うつもりなんて…」
「じゃあ、逃げるだけでここまで来たんだ。君おもしろいね」
ふとエレインさんが持っている剣に目をやる。燃え上がる炎を彷彿とさせる意匠が施されている。ギルドの人から聞いたイメージと合致する。
「その剣ってフレアルシオンですよね?」
「そうだよ。ただ伝説で語られる性能はこの剣にはない」
「さっきボスをその剣で仕留めたじゃないですか?」
「私の実力だよ。それに剣を手に入れるときにボスは素手で倒したよ」
エレインさんは平然と言った。
確かにあの剣は本来ボスを倒してから手に入れるものだ。
「とりあえずこの迷宮から出ようか。その間にボスがあの部屋から出てきた理由とか色々聞いていい?」
エレインさんは未知の出来事にワクワクしている様子だった。
エレインさんは確かに強かった。俺が必死で逃げて隠れてなんとかしていた魔物を一瞬で屠っていく。ここが国内最高難易度の迷宮というのを忘れてしまうほどいとも簡単に。
でも、一撃で数千の魔物を倒すなんてことはなかった。伝説は盛られていただけだったと分かった。
行きは1週間近くでかなり早くこれたと喜んでいたのに、たった1日で地上に戻ってこれた。
「まぶし!」
久しぶりに太陽を見た。生きて帰ってきた事実にホッとする。
「じゃあ、近くの街に着いたら解散しようか?」
「エレインさん、迷惑だとは分かっていますが、故郷の人たちを助けるのを手伝ってもらえませんか?頼れるところが他にないんです。できることなら何でもするので、どうかお願いします。」
頭を深く深く下げる。
迷宮探索で得られた成果は何もなかった。目的だった剣も思ったほどではないし、それにエレインさんが手に入れたものだし。このままでは魔族と戦うことなんてできやしない。
「んー、いいよ」
「え!?本当に!」
そんなあっさり!?
治療までしてもらった上に、協力まで…。いい人すぎる!
「ただし、今すぐってのは無理」
「なにか事情があるんですか?」
本当ならば今すぐ助けにいきたいところだが、それができないようななにかがあるのだろうか?
「リアムの住処のどこに村人がいるか、敵がどこにいるのか知る必要がある。侵入したはいいものの、村人が全員殺されるなんてことにはなりたくないだろう?」
言い分は分かるが、それができるならとっくに兄がやっているはず。直接入り込んで探すしかないのでは?
「じゃあどこにそんな情報があるんですか?ギルドも知らないらしいですし」
「東の方の国に天才魔道具師がいる。その人が作る遠くを映す鏡を使えば、村人がどこにいるかや入る道も分かる」
そんな便利なものがあるのか!
「ではそちらに向かうということですね!」
「そう。あと君はそもそも弱いでしょ?君がリアムと戦っても死ぬだけだよ。道中で君を鍛えよう」
こんな強い人に鍛えてもらえる機会なんて普通はないだろう。ありがたすぎる。もはや女神にすら見えてきた。
「分かりました。お願いします師匠!!」
「師匠って…。まあいいか」