第三話 魔女との契約その二
『君は運が良い。なぜならこの私と出会ったのだから』
僕は呆然と、魔女を見上げていた。
『噂話は聞いているだろう?戦場に現れては死体を連れ去る、魔女の話を』
茨と紫。たったそれだけが、魔女について思い出せる事柄だった。
『茨の魔女。それが、この私』
僕の目は魔女を見ている、でも、僕の目には魔女の姿は見えない。
『もう一度言おう』
僕の耳は魔女の声を聴いている、でも、どんな声だったのか、もう思い出せない。
『君は運が良い。この私と出会い、尚且つ、君は生きている。私と会えるのは死者のみというのに。こうして君は生きたまま私と顔を合わせている。その事に私は惹かれている』
何を見上げているのか、誰と話しているのか、もう僕には何も分からない。でも、僕の心臓は早鐘のように鳴り響き、何も感じないはずの心が深い深い闇に呑みこまれるのを感じていた。
『とても、惹かれている』
熱く冷たい魔女の指が僕の胸を撫で、その指先から伝わる冷気が心臓を撫でさする。
『命の躍動、死者が失った鼓動。幾百、幾千年ぶりだろうか』
焦がれるような呟きには、嫉妬とも切望ともとれる響きがあった。
『君の願いを一つかなえてあげよう・・・この熱く響く心臓と引き換えに』
冷たい吐息が頬を撫で、薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。
『君の願いを一つかなえてあげよう・・・生命に満ち満ちた巡る血潮と引き換えに』
頭には靄がかかり、ぼんやりとしたまま、感じたままのことを呟いていた。
「僕の願いは・・・お嬢様にお仕えすることです」
『そのお嬢様は死んでしまった』
魔女の両手に、晒されていたお嬢様の頭が現れる。虚ろな目と微かに開いた口元から黒ずんだ血を垂らす、お嬢様の御顔。
『あぁ・・・こんなにも若く瑞々しい肌を、血と泥に染めて。輝く黄金色の髪を、溢れる臓物に浸して・・・』
魔女はお嬢様の頬に指を這わせ泥を拭い、そのまま血濡れた髪を弄ぶ。
『君の願いはお嬢様にお仕えすること。でも君のお嬢様は、もう、君を見ることも、話を聞くことも、言葉を交わすことも、できない』
魔女は両手をお嬢様の頬に這わせ、僕の目の前に差し出す。
微かに開かれたお嬢様の瞳はどちらも虚ろで、鼻と唇からは黒ずんだ血が断たれた首筋に流れ落ちている。
『お嬢様の声が聞こえるかな?』
魔女の声が木霊する。
「・・・聞こえません」
『そうだろう、この子はもう死んでいるからね』
だけど、と魔女は続ける。
『君の声なら、私には聞こえる。君の願いならば、私には届く』
『君の心臓と引き換えに、願いを叶えてあげよう』
『君の熱い血潮と引き換えに、願いを叶えてあげよう』
『君の願いを、叶えてあげよう』
『君の願いを、君のお嬢様を、君の願うお嬢様を、願を、引き換えに、叶えて、君の心臓を、君の血潮を、引き換えに、願いを、願いを、引き換えに、熱い血を、鼓動を、私が、君を、君の願いを・・・』
『叶えてあげよう』
僕はもう、どうすることも出来ず、何も考えられず、唯一つの事だけを願った。
「僕のお嬢様を生き返らせてください!」
冷たい涙が零れ落ちる、僕は泣いていた。泣きながら、ただお嬢様が戻ってくることを願った。
『それは出来ない』
魔女は冷たく言い放つ。
『死は全ての者に等しく訪れるこの世の理、何人もそれを覆すことは許されない』
魔女の手の中の、お嬢様の唇が震えていた。
「僕の願いは、お嬢様にお仕えすることです!お嬢様が生き返れないのならば、僕の願いは叶いません!」
僕は叫んでいた。この心臓と血と引き換えに、お嬢様が生き返るのなら。何も、何も惜しくは無かった。
『・・・生き返らせることは出来ない。だが、君の願いは叶えよう』
魔女の手の中のお嬢様が、僕を見つめていた。
『その脈打つ心臓と、熱い血潮と引き換えに』
魔女の最後の言葉が聞こえると同時に、冷たい何かが僕の胸を貫く。氷の様な何かが全身をまさぐって、そして僕は叫びながら気絶した。
寒かった、指の先から足の先まで、真冬の吹雪の中何も着ず裸で横たわるような、寒さだった。
冷え切った身体を凍り付いた指先がなぞり、冷たい掌が喉元を這う。
誰かが僕を触っていた。
「・・・おじょ・・・う・・・さま」
何故かそう思った。
触れる指先に恐怖は感じなかった。氷のような冷たさなのに、どこか温もりを感じた。それは昔、使用人頭にひどく怒られ屋敷の離れで一人泣いていた時に、お嬢様が差し伸べてくださったあの手の温かさと、同じだからだった。
「・・・お嬢様」
涙が凍って瞼を塞ぎ、目を開ける事が出来ない。
「お嬢様」
それでも繰り返し呼び続けた、お嬢様を。
「・・・馬鹿ね、本当に・・・」
もう聞けないと思っていた声が、お嬢様の声が聞こえる。
冷たい指先が凍り付いた僕の瞼に触れ、涙共々氷を払い落としていく。
「目を開けなさい」
はいと答え、すぐに瞼を開く。きっとそこにはお嬢様の怒りながらも、優しさに満ちた瞳がある筈だから。
「ありがとうございます、お嬢さ・・・ま」
傷だらけの板金鎧に包まれた身体と手足。長かった黄金の髪は不揃いに切り落とされ、顔に暗い影を落としている。前髪の隙間から僕を覗きこむ瞳は暗く、その眼差しは冷たかった。
「直ぐに身体を動かさないで。指先の感覚が戻ってからゆっくり起きなさい」
「は、はい」
何度も僕を叱り、でも励ましてくれたお嬢様の声が、氷の様な冷たさに満ちていた。
言われた通りかじかむ指先を何度も動かしながら、腕を膝を曲げ伸ばしする。次第に熱を取り戻す身体が急激に震え出す。
「あ、さっ、さむっ寒い、身体が、おじょ、お嬢様」
胸の奥に冷たい塊があり、そこから熱を奪う何かが身体を巡っていた。激しい震えに振り回され、上手く喋ることもできない。お嬢様に拭っていただいた涙が再び溢れ、どうしていいか分からず眼だけでお嬢様を探す。
「落ち着きなさい。新しい心臓が身体に馴染み、血が指先にまで巡る様に為れば治まります」
「は、はい」
震えながらも次第に熱を取り戻していく身体。時間にすれば僅かな間だったが、待っている間はかなり長く感じた。しかし落ち着くにつれ、先ほどのお嬢様の言葉が疑問となって頭を巡った。
「お嬢、様。新しい、心臓、とは」
「そのままの意味。お前は茨の魔女と契約を交わし、心臓と血とを引き換えに願いを叶えた」
見下ろすお嬢様の瞳が冷たい。まるで咎めているかのように、まるで見下しているかのように。
「契約・・・願い・・・」
お嬢様の光りの無い瞳が、細められる。
「お前は、死んだ私を甦らせた」
指先まで鉄に包まれた手を持ち上げ、お嬢様は短くなった金色の髪を掴む。
「魔女は死者を生き返らせることは出来ない、だから・・・こうなった」
軋む鎧から引き抜かれる首。星の少ない夜空の下、お嬢様の頭が、ぶらりと揺れていた。
-つづく-