第十二話 骸の騎士、出陣その一
時折爆ぜる薪の音。途絶えた煙突から漏れ出る煙が部屋を漂い、夜風に散らされ星空へ消えていく。
いつの間にか訪れていた夜空の星々が、漂い消える煙の向うで瞬きながら僕を見下ろしていた。
煮えたつ鍋の中を覗き込みながら、茨の魔女は焦げた板切れを手に取り振り返る。
「さて・・・昔話が終わった所だが、おかわりはどうかな?」
僕は手の中で冷めた炭味の何かの煮込みを慌てて口の中へ流し込み、魔女の元へ駆け寄った。食べながら走るなんてお嬢様に怒られる、と思い横目でお嬢様を見たがその金色の瞳が僕を見る事は無かった。
食事が終わるまで魔女が口を開くことは無く、そしてお嬢様が僕へ何か話されることも、無かった。
炭味の煮汁を焦げた麺麭で拭い終えるまで、無言の食事は続いた。食べ終えた僕を満足そうに見届けた魔女は、受け取った木皿を燃える薪の中へ放り込み立ち上がった。
「長話で疲れたかな?あの手の話は聞いてるだけでも疲れるものさ、気にする事でもない」
僕の眠たげな眼差しを笑いながら、茨の魔女は竈から鍋を降ろす。
「明日から君は働き尽くめになる、早めに休んで備えた方が良いだろう」
隣の部屋に戻り休むように告げ、魔女はお嬢様を従え地下へ続く階段に消えていった。
僕は言われた通り隣の部屋へ向かおうと歩き出したところで、暖炉で燃える薪に目を向けた。消した方が良いだろうか?立ち止まり考えている所へ魔女の声が響く。
「・・・そのままでいい、消してしまうと君が眠る奥の部屋が冷えるからね。朝、君が凍えて目覚めなくなっていては困る。薪は適時放り込んでおくさ」
はい、とだけ答えて僕は部屋を後にした。
藁の山に掛けられた荒布は、湿った室内にも関わらず日の匂いを漂わせている。いつ干したのだろうか?寝床に潜り込みながら僕は、先程の声を思い返していた。
地下へ向かったのに、魔女には僕が何をしているのか分かっていた。どうしようかと考えている事さえ、見通していた。初めて会った時から、あの魔女は僕の心を見通していたのかも知れない。
この森で起きた事、恐るべき魔剣に呪われし鎧、そして妖馬。
この先起こる事、僕がお嬢様と共に成さなければならない事。
それは簒奪王配下の魔剣を携えた戦士達と闘い、茨の魔女が奪われたものを全て取り返す事だ。
目を瞑ると恐怖に押し潰されそうになる。魔女の目はどこにいても僕を見ていて、何を考えているのかさえ知っている。
「だからどうだって言うんだ、それでも僕は・・・」
拳を握り締め、瞼を無理矢理閉じる。それでも僕は、やり遂げなければならないのだから。
でもどうやって?と、心細く呟く僕の言葉は抗えない眠りによって、掻き消された。
「・・・この森に近い・・・二振りの魔剣」
いつの間にか眠っていた僕を目覚めさせたのは、隣の部屋から漏れ聞こえる魔女の声だった。
「名は・・・グラウベリンド、と呼ばれている。北方の訛りが強いね、北の外れの凍りついた国からの流れ者だろう。王の使いとしては、率いる仲間共々身なりは宜しくは無い様だ。ベルクト坊やへの忠誠は・・・まあ、無いだろう」
僕は温かい藁束の寝床から静かに抜け出し、軽く身体を掃って藁屑を落とし歩き出した。
「おはよう、よく眠れたかい?」
まだ戸口を潜っていないのに、茨の魔女は僕へ声を掛けてきた。
「は・・・はい」
進む先の壁越しに見える外の景色はまだ暗く、夜は明けていない。揺れる暖炉の明かりが立ち尽くすお嬢様を照らしているが、そのお顔は部屋の暗闇に溶け込み僕には表情を窺うことは出来なかった。
「それは結構。早速だが出立してもらうよ、旅に必要に物は纏めてある。道すがら食べられる様にそこの雑嚢に麺麭も入れておいた。昨日焼いたものだから堅くはなっているだろうが、食べられない程ではないさ。岩棚で水も汲んでいくと良い、しばらく使っていない水袋だから良く濯ぐ事を勧めるがね。なに、礼はいらないさ。急がせているのは私だからね、これぐらいの用意はするべきだろう」
「ありがとうございます」
僕は礼はいらないと言われたのに、魔女に感謝を伝え戸口の横に置かれた雑嚢を拾い上げた。口紐を解き中を確認すると、注ぎ口に栓を詰めた大き目の水袋が二つに絞った荒布がいくつか詰められている。黒い塊の様なものは恐らく昨日焼いたという麺麭なのだろう。きっと炭味だ。ちらりと僕は茨の魔女を盗み見る。
「私の森では・・・」
魔女はお嬢様に視線を向けたままだ。
「気軽に口に出来るような実をつける果樹を見つけることは困難でね、他の木の実や茸もまた灰汁や毒性が多く食事には不向きだ。森を出て探せば何かしら見つかるだろうから、足りなければ頑張ってくれたまえ」
無言のまま僕は雑嚢の口紐を閉めた。茨の魔女に対する恐怖は消えてはいない、だがいつまでも怖がってばかりでは駄目なのだ。
「魔剣を携えた簒奪王配下の戦士が、森から離れてはいるが軍勢を引き連れ来ている。相手は隣国の兵の一団の様だ。統制は取れているが百に満たないね、戦端が開かれるのはまだしばらく後だろう。二振りの魔剣を相手にするには心許ない人数だが、まあ、知らなければそんなものなのだろう」
隣国、たしか節くれ立った樹々と山を紋章とした山岳国。
「そう、東北の山国だ。彼らは自らを山神の民と語ってはいるが、その山神とやらの名を聞いたのはここ最近でね。私はこの森にかなり昔から根ざしてはいるが、森に踏み込む者は誰もその名を口にした事は無いし、その山の神に会ったという話も聞か無い。勿論私も会ったことは無いさ。もしかしたら彼らは住む山を神と呼び崇めているのかも知れない。信仰とはそういうものの様だが、彼らにはそうしなければならない理由があるのだろう」
どうでも良さげな口ぶりから、茨の魔女にとって山の神も山神の民も、そういう存在らしい。
「山神の民とは無理に戦わなくても良い、彼らとは何の因縁も無いからね。ただし、君達に敵対し私の森に踏み込むというのであれば加減する必要は無い」
お嬢様を見つめる魔女の瞳は変わらず穏やかで、微笑みさえ浮かべていた。
「まとめて森の肥やしになってもらおう」
日の出を待つ森を進むイシュカーンの歩みは緩やかで、薄暗い樹々の合間を縫うように歩いている。僕はお嬢様の後ろで揺れに身を任せながら、茨の魔女の忠告を思い返していた。
庵を立つ際、暖炉脇に坐したままの魔女から一つだけ忠告を受けた。
「いいかい、君の仕事は骸の騎士の従者ではなく取り返した魔剣の回収だ。持ち主が居なくとも魔剣は魔剣だ、その手で触れれば剣の魔力に囚われる。君の様な幼子ではひとたまりも無いだろう。だから必ず、直接剣に触れない様に布を巻き袋に納めるんだ。いいね?」
振り返る僕は影の中で手を振る魔女に、はいと大きく返事を返す。魔女の庵は直ぐに森の樹々に呑み込まれ消えた。
その後イシュカーンは何も言わなくても岩棚に向かい、僕は水袋をすすぎ冷たい水で満たして鞍によじ登った。鞍上のお嬢様はその間森の奥を見据えたままで、一言も口を開かれることは無かった。きっと怒っていらっしゃる。
僕がお嬢様の言う事を聞かなかったからだ。
だけど今のお嬢様を忘れて、僕だけが故郷に帝国へ帰るなんて出来る訳がない。亡き御領主様との約束も果たさず、しかもお嬢様を骸の騎士にしてしまったのは僕だ。茨の魔女との契約の事もお嬢様にお任せして、のうのうと帰れる筈が無い。何もせず僕だけが帰ってはいけないのだ。
再び歩き始めたイシュカーンの揺れる鞍の上で、骸の騎士となったお嬢様を見上げる。
立派な騎士様の鎧の上で揺れる、黄金の髪。断ち切られ短くはなってしまったが、その輝きは変わらない。ずっと見上げてきたお嬢様のままだ。
そうずっとお仕えしてきた、お嬢様のままなのだ。
しばらく進むと不意に周囲の樹々が消え、いつの間にかお嬢様と僕は荒れ地の只中に出ていた。森に満ちていた樹の匂いは乾いた土埃交じりの風に変わり、強い日差しがお嬢様の鎧で跳ね返る。僕は眩しさに目を細め、外套の頭巾を深くかぶり直した。
振り返ると遥か後ろに霞む山の麓に微かに森が見える。いつの間に・・・とはもう思わない、あの森は魔女の森とはそういう場所なのだ。
妖馬の歩みは止まらない。何処へ向かうのか知っているのだろう、緩やかに下る道なき荒れ地を軽やかに駆け抜ける。程なく、大きな岩が並ぶ荒れ地の一角に集う一団を前に、妖馬は駆ける足を緩めた。
僕の背よりも大きな岩がいくつも並ぶその場所は、荒れ地には似つかわしくなく整えられ、砕いた石が敷き詰められていた。ひときわ目を引く黒い石の板が積み重ねられ、何かを祀る祭壇なのか首から血を流す大角鹿が捧げられていた。
大振りな毛皮を纏う戦士の一団の中で、長い髪を後ろで束ねた若い戦士がいぶかし気に進み出て来た。
「お前たち!そこで止まれ!」
鋭い双眸が細められ、横に添えられた手が腰の後ろに下げた剣の柄に伸びる。背後の一団が騒めき、一人また一人と得物を手に駆け寄る。
「・・・お前達こそ私に何の用だ?この地は誰のものでもない、誰が通ろうと何処を通ろうと勝手だ」
「何?!」
「私の通り道を塞いでまで何用か」
低く抑えられたお嬢様の声は平坦で、見下ろす眼差しは冷たかった。
「なんだと!」
怒りを露わに若い戦士は剣を抜き放ち、切っ先をお嬢様に突き付ける。
無言のお嬢様が目を細める。
「簒奪王の手の者だな!ここは我らが父祖の地ぞ、奪いたければ手勢を率いて来るが良い!」
戦士の怒りに満ちた声が、既に臨戦態勢の者達に伝播し雄叫びとなって押し寄せる。
慌てて僕が口を開く前に、お嬢様は腰に佩いた魔剣の名を呼んだ。
「ポードボーグ」
魔剣の柄頭の八つ目が歓喜に震え、開かれた。
-つづく-