第一話 魔女との契約その一
戦争は嫌いだ。
人が殺しあうのはもっと嫌いだ。
どうして人は殺しあうのだろうか。
降り始めた雨の中、僕は立ちつくしていた。
辺りに人はいない、真夜中だ。なによりここは戦場で、夕方近くまで戦闘が行われていたのだから。
いつの頃からか、戦争で大量の死人が出ると流れる噂があった。
魔女が現れるぞ、と。
大勢の騎士や、その従者や、駆り出され死んだ住民たちの死体が、翌朝には消える。
魔女が何のために死者を引き連れていくのかは誰も知らない、知りはしないが、知ってはいるのだ。魔女が現れ死人を連れ去ったのだ、と。
だから、ここに生きている者はいない。残されたのは死体ばかりだ。日が出ていればまだ国元へ連れ帰る手間もかけるが、日が落ちようものなら慌てて我先にと帰路に就く、死者は置き去りで。
苦悶の表情で息絶えている大柄な騎士様、どこの国のお人だろうか。
数人がもつれるように倒れている。互いに剣を握り、その切っ先はお互いの胸や腹部を刺し貫いている。
そんな死体があちらこちらにある。どれほどの人がここで死んでいるのかわからないくらい、人が死んでいる。
だけど僕は生きてここに立っている。
いや、もう死んでいるのかもしれない。
なぜなら、僕が生きている理由がなくなってしまったから。
目の前に穴がある。
そこに首を落とされた騎士様達の首級が投げ捨てられていた。
覚えのある顔もあれば、知らない顔もある。だけど、端の方に転がっている顔は、よく知っている御方のものだった。
「だから、反対したんです」
僕は泣いていたのだろうか。雨に打たれながらだから、涙なのか雨なのかわからないけど、声は震えていた。
兜を外された、無造作に金色の髪を垂らす血と泥に汚れたお嬢様の顔が、そこにあった。
「僕はどうすればいいんですか?お嬢様」
どれくらいこうしていたのだろう、僕は立ち尽くしたまま何をするでもなく雨に打たれていた。
何をするでもなく。
一体、何ができるというのだろうか。僕はずっとお嬢様にお仕えしてきた、これからも、きっとお嬢様からお暇をいただくまでずっとずっとお仕えする筈だった。
どうすればいいんだろう。
どうしたらいいんだろう。
帰る場所などなく、行く当てすらない。
僕には何もない。
お嬢様にお仕えすることだけが僕の全てだった。
「・・・どうしよう、僕は、どうしたらいいんですか?お嬢様」
僕は出来の悪い使用人だった。いつも皆に迷惑をかけて怒られていた。
お嬢様にもずいぶん叱られたけど、それはただ怒鳴り散らすだけの皆とは違っていた。
間違えた時や失敗してしまった時、お嬢様は僕を叱るだけでなく、どうして間違えたのか、どうすれば良かったのかを教えてくださった。
だけどお嬢様はもう答えてはくれない。
・・・雨が降っている。
僕は何も出来ないまま、ただ、立ち尽くす事しか出来なかった。
「いつまでそうしているつもり?」
不意に、女の人の声がした。
僕は振り向いた。
いつからそこにいたのだろう、僕からそう離れていないところに、その女の人は立っていた。
「・・・僕にもわかりません」
本当にわからなかった。
「そう・・・まぁいいわ」
その女の人は軽く頷いて、消えた。
「あらあら、女の子ね」
後ろから聞こえる声。
振り返ると、すぐ傍にその人がいた。
茨の意匠が施された紫色のコルセットに手を当てて、穴を覗きこんでいる。
「ふーん、珍しいわね。頭の硬い帝国が女騎士なんて」
「・・・お嬢様は帝国でも由緒ある血筋の方なので、問題はないそうです」
どうしたんだろう、今、何かおかしい事が起きているのに、僕は冷静なまま答えている。
「由緒ある血筋、ねぇ。百年も経ってない成り上がりの帝国にそんなものがいつできたのやら」
女の人は珍しそうに、肘まである紫色の手袋のレースが施された指先を伸ばして、お嬢様の金色の髪を抓んでいる。
「この娘、混血ね。ふふん成り上がりは成り上がりなりに、体裁を取り繕うとしている訳ね。」
ゆらゆらと揺れる炎に照らし出された切れ長の銀色の瞳が、僕を見た。
「で、君は何をしているのかな?」
僕は答えられない。
ゆっくりと、うなだれることしか出来なかった。
「あらあら。じゃあ質問を替えるわね。君はどうしたいのかしら?」
うなだれたまま、僕は言った。「・・・わかりません。何をしたらいいのか判らないんです。・・・お嬢様はもう答えてはくれませんし、僕には帰る場所もありませんから・・・お嬢様がお亡くなりになったここに、いるしか・・・ないんです」
言葉にだして、やっと僕は頬をつたう涙に気が付いた。
僕は泣いていた。
お嬢様がお亡くなりになられたことを悲しんでいるのか、もう帰る場所も無いことを悲しんでいるのかわからないけど、僕は泣いていた。
「ここにいる?そうね、それなら夜明け前には間に合うかしら」
腕を組んで、女の人は言った。
「残党、野獣、後は追い剥ぎ?結構派手に戦争してるみたいだから、集まって来るわね。死体もあるし」
楽しげに辺りを見渡して、最後に僕を見た。
「君の大事な大事なお嬢様の後を追うのなら、ね」
それは・・・
「まあ、生きていればいつかは死ぬ訳なんだし、私としてはどっちでも良いんだけど」
女の人は微笑を浮かべたまま、僕には聞き取れない『何か』を呟いた。
目に見えない、聞こえない、だけど、感じることは出来た。
その『力ある言葉』は。
それは、とても、恐ろしい、言葉なのだ。
僕は凍りついた。体中が固まった。何も考えられなくなった。
悲しみも苦しみも恐怖も後悔も、心ごと凍りついてしまった。
「もう少し君とお話していたいところだけど、先に用事を済まさないとね。そのためにわざわざこんな所まで足を運んだのだし」
まばたきすらできない固まった僕には、見えない所で何が起きているのかはわからない。
だけど、音は聴くことができる。
そこかしこで鉄が擦れる音、何か重い物を引きずる音、『誰かが歩いている音』が聞こえてきた。
僕の心は凍っているから、だから何も怖くはなかった。
剣や槍を引き摺って、『彼ら』が集まってきた。
剣や槍を突き立てたまま、『彼ら』が集まってきた。
剣や槍で殺されたはずの『彼ら』が集まってきていた。
『ようこそ死屍たる愚か者ども。虚ろなる魂を捧げ、我が言霊を刻み込め。汝ら屍は皆我が忠実なる僕であり、永劫に逃れえぬ奴隷であるゆえに!』
高々と告げるその声は威厳に満ち、抗うことすら許されない絶対の命令を下された死者達は死してなお恐怖に顔を歪め、雷に打たれたかのように皆一斉にひれ伏した。
「はいはい、良い子達ね。ほら、さっさと刺さってる槍とか剣とか抜きなさい。そうね、矢も忘れないように、折れた鏃とかも残さないでちゃんと取りなさい」
先ほどとは打って変わった親しみのこもった声で、矢継ぎ早に命令を下す。
「さて。君はどうするのかな?」
緩慢な動きで自らに突き刺さる矢や剣を引き抜く死体達を見つめたまま、その人は僕に問いかける。そう、僕にだ。
「君はどうしたいのかな?」
その声はとても美しく響き、僕を揺さぶり、誘惑する。
「君は、そのお嬢様を、どうしたいのかな?」
お嬢様を、どうしたい?。
「そう、その首だけになってしまった君の大事な大事なお嬢様。彼女を、君は、この私に、どうしてもらいたいのかな?」
僕は・・・
「・・・お嬢様」
僕はお嬢様を見る。穴の中の、虚ろな目をしたお嬢様。
「お嬢様は・・・願っておられました。お家の再興を・・・だから、この戦争に参加されて、武勲を立てて・・・」
「そうね。でも、死んでしまってはお家の再興も武勲も無いわね。夢は夢のまま。屍を晒し、何もかも失ってあとはただ消えるだけ」
消えるだけ・・・お嬢様も、僕も・・・
「そう。消えるだけ。どんな騎士も王もただの人達も、死ねば皆腐り落ち土に還る。何も残すことなく、魂は無念と絶望に打ちひしがれ、私の奴隷となる」
僕の目の前に、その人は立っていた。その人はもう女の人ではなく、人ですらなく、圧倒的な濃い闇が、深い暗黒が、僕の前に広がっていた。
-つづく-