第7話 誰かのため
今日は水曜日。一週間がまだまだ続く事に落胆する生徒が多いが、家に帰ってもする事の無い暇な人にとってはむしろ嬉しく、俺もそちら側の人間であるため、いつもと変わらない足取りで学校に登校する。
途中、同じ制服の生徒とすれ違ったり、はたまた近所の学校の生徒であったりと。様々な人たちとすれ違う中、見知った後ろ姿を見付けた。
そちらに走って近付いてみると、やはり予想していた人物だった。
「おはよう、空天」
声を掛けると、大して驚いた様子もなく、平然とした様子で白い髪を揺らして振り向いた。
そして、にっこりと優しく笑い、
「おはよう、いつもより速いね?」
「ああ、週末の事で相談したかったから」
そう。俺の本当の目的は、奏谷たちと千聖の交流について、どこで行うかなどを詳しく話し合っておきたかった。
すると、その言葉に驚いた様子を見せた空天は首を傾げて言った。
「翔哉の家じゃ無いの?」
「えっ?」
本当に初耳だった。
間の抜けた声をあげた俺に、空天がまた驚いたように言った。
「ち、違った?翔哉の家に皆で行くって聞いたけど……」
「誰から?」
「斎矢ちゃん」
「やっぱりな」
俺は呆れて嘆息を漏らした。やはり、思った通り斎矢の仕業で苦笑が浮かんでしまう。
そんな俺を見て、空天が困ったように頬を掻いた。
「えっと、てことは無し?」
「いや、良いよ。別に見られて困る物も無いし……」
今度こそハッキリと苦笑して、渋々頷いた。
実際言った通り見られて困る物も、ましてや親さえも家にはいない。そんな状況で特に断る理由もない。
「ありがとう、色々と」
「まあな。……それに、これは俺が提案したことだし」
心配そうな視線を飛ばしてくる空天に言って、俺は前を向いた。
隣で、空天が伸びをするのを横目に、俺はボーッと歩みを進める。
何だか、疲れているようだった。ここ最近は、物語の中心にいるような状態が続いて、今まで端で本を読んでいるような人物だった俺が、こんなことをすることになって大分疲れた。
それは俺が変わったこと。取り巻く環境が変わったことを示しているが、果たしてそれが好転かどうかは分からない。
だが、もし悪い方向に転がっていってるとしても、俺は必ず、長い時間を掛けても良い方向に変えてみせる。
と、そんな決意をしながら歩き、やがて学校の校舎が見えてくる。
すれ違う生徒も増えてきて、同じクラスの人も目につく。そのまま校舎内に入って上靴に履き替え、空天と教室前で別れる。
俺は教室に入ろうとドアを開けようとした時。
「よお、お前翔哉だよな?」
肩を叩かれ、振り向けばそこには長身で、体つきの良い生徒が2人並んでいた。おそらく3年だろう。
「そうだけど、なにか?」
こういう時は敬語を使わないのがお勧めだ。ここで敬語を使うと、相手は自分を上に見てると勘違いする。明らかに柄の悪い人に絡まれた時の話だが。
そう答えると、俺の肩に手を置いたままの生徒が、口の端を吊り上げて笑った。
「なあ、奏谷の事なんだが──」
《《また》》か。俺は嘆息を堪えるのに必死だった。
最近、増えてきたのだ。こういう輩が。奏谷の笑えない病気は事情を知らない人ならどう考えても不快に思う。それは避けられない事実だが、それを奏谷だけでなく俺のような周りも巻き添えにしてはらいせをする。
実に小心者のやり方だが、それが増えている。
俺が奏谷と行動しているのは広まってきているし、それを理由にとやかく言ってくる者もいる。さすがに面倒だった。
──だから、こう言う時は。
「ねえ、翔哉。ちょっと話があるんだけど……」
後ろから、女子特有の高い声が耳朶を打った。見れば、千聖が不愉快そうに俺を睨みながら、それだけで怒られる事が分かるような顔付きだった。
まあ、演技だが。
やはり持つべきは天才だな、などと思いながら2人に片手を挙げて、
「じゃあ悪い。こいつがうるさいから行くわ、また今度頼む」
適当に済ませ、有無を言わせぬ速さで教室に滑り込む。これで、この作戦はもう使えないが、おそらく向こうも話し掛けては来ないだろう。
教室に入り、いくらか気が楽になったのを感じて息を吐き出す。
何度も経験したとは言え、慣れた訳ではないのだ。当然このように威圧感を感じない事もない。
「助かった、ありがとう」
「いい。……それより、そろそろ手を打たないといけないんじゃないの?」
腕を組んで、片目だけでこちらを見てくる千聖。
確かに、彼女の言う通り早急に手を打つべき事案だろうが、それが出来たら苦労しないし、こんな風に助けてもらわない。
そもそも、奏谷との交流を計画している今、距離を置くなど不可能だし、出来れば置きたくない。
奏谷の心境と、そしてこの周りの状況を鑑みた結果の俺の見解に過ぎないが。こればかりは、奏谷との話し合いで決める他無いだろう。
そう思っていると、予鈴が教室に響いて、同時に俺は席に着いた。
***
その日の帰り道は、千聖の意見で奏谷と帰る事になった。……のだが、
「雨降りじゃねえか……」
そう独りごちて、昇降口から外の様子を覗き見る。
灰色の雲が空から雨を落とし、地面を濡らす。そんな幻想的な表現に反して俺はうんざりとした思いで溜め息を漏らした。
傘を持ってきていないのだ。
天気予報はしばらく見てないので、いつもこんな調子だ。さらに、今日は奏谷もいて、さらに面倒な状況となった。
奏谷はまだ来ていない。どうするか。
しばらく画策しながらうろうろとその場を歩き回っていると、もう遅いとでも言うように奏谷が来た。
「ご、ごめん遅れた。……って、雨」
「ああ、お前は傘持ってきてるか?」
奏谷が首を横に振る。
まずい事になった。
「どうする?」
「走って帰るか」
困ったようにこちらに来る奏谷にそう聞いてみると、奏谷はぎょっとして正気を疑うような視線を向けてくる。酷いな。
「いや、この量の雨なら我慢できるだろ?してくれ」
「分かった」
渋々頷いてくれた奏谷にありがとうと礼を短く言って、バックを頭の上に掲げる。これで多少は凌げる。奏谷も同じようにするのを横目に、俺は地面を蹴った。
顔に打ち付ける雨が冷たい。
だが、それも一瞬の事で、後からはただ湿気を生む煩わしいモノでしかなくなる。実際現在もじめじめとした空気に、服が体に張り付いて気持ち悪い。
横目で奏谷の様子を見る。
息切れた状態で、必死に追い掛けてくる奏谷。髪が所々にくっついている。
「大丈夫か?」
「も、もう無理……」
後で、ズシャアと言う泥を巻き込んで転ぶ音がする。
後ろを振り返れば、うつ伏せの状態で転んでいる奏谷が見えた。俺は急いで駆け寄る。呻き声を上げながら状態を起こす奏谷。だが服は酷いくらいに汚れていて見るに耐えない。
俺は一瞬の躊躇の後、背を向けて屈む。
奏谷が驚く声が聞こえて、俺は声を大きくして言った。
「速く乗れ、じゃないと風邪ひくぞ?」
奏谷の重みが背中に伝わって、優しく首に腕が巻き付く。
温もりが控えめに伝わってきて、共に柑橘系の甘い香りと泥が混ざった不思議な匂いが鼻孔をくすぐり、それを振り切るように走った。
耳元で、ありがとう、と聞こえたのは気のせいなのかどうなのかも分からないままにして。