第5話 居眠り
10月も中旬を迎え、気温も本格的に下がり始めた頃。上にパーカー等を羽織る生徒が増えてきた頃。まだ朝だと言うのに、机に突っ伏して寝息を立てている人物がいた。
その人物は、なんと俺の隣の席で、気まずいことこの上無い。
これから話し掛けるとなると、さらに。
「………おい。起きろ」
軽く揺すると、それに合わせて短く切り揃えられた髪がさらさらと揺れる。
それでも目を覚ます事の無い彼女を、今度はもう少し強く揺する。
「おい、おい。頼む起きてくれ」
「──うるさい、何?こんな時間に」
「朝だぞ?お前は今何時だと思ってるんだよ」
ようやく目を覚ました彼女は、こちらを睨みながら寝惚けた言葉を溢した。
彼女の名前は桐生千聖。銀色の髪を短く切り揃え、瑠璃色の瞳が特徴的な少女。身長が小さめで、周りからの印象としては、『可愛い妹』だ。
そんな千聖を起こす事に成功した俺だが──
「何か用?」
「あ、ああ。実はお願い事が──」
「やだ」
そう。その実、彼女は性格が超が付くほど悪い。
まるでその容子から想像出来ないような罵詈雑言が飛び出したり、とにかく色々と問題を引き起こす。
俺は、少し頬をひきつらせながらもう一度説得を試みる。
「本当に、これは千……桐生がいないと出来ないんだ」
「それは、ずいぶんと大変なことだね。私の『頭』を使わないと君は何も出来ないと。──つまり、バカと」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で完全な諦めが生まれた。
嘆息して、一言だけ残して席に着くことにした。
「放課後にまた聞くから、その時まで考えててくれ」
その言葉を聞いた後、千聖は再び眠りについてしまった。
1日の授業を終えた事を知らせるチャイムが響き、ほとんどの生徒が帰路に着くか部活動に向かっていく中で、その事にも気付かずに眠っている千聖の姿があった。
俺は、少しだけ帰っていない事に安堵しながら再び肩を揺する。
「やめて、起きてる」
「ああ、それは悪い」
顔を動かして、半分だけ腕の枕から顔を上げた千聖がこちらを見上げる。その視線が妙に居心地悪い。
「それで、私は何をすれば良いの?」
「──協力してくれるのか?」
「違う。まだ決めてないけど、何をするかによって変わる」
千聖の視線が確かめるような、怪しむような、見定めるような視線に変わった。
俺は、その瞳を見返しながら、ゆっくりと説明する。
「俺は──助けたい人がいる。そいつは、1人だったんだ。ずっと。今も、普通に暮らせていると言っても、1人なんだ。孤独に、人生を過ごすそいつを俺は助けたいと思っている」
俺の説明を聞いて、少しだけ驚いたように目を見開いた千聖。だが、すぐにいつもの少し不機嫌そうな表情に戻る。
「それを、人はお節介と呼ぶんだよ」
「分かってる。……それでも、俺は助けたいんだよ!」
「何も出来ないと分かってても──でしょ?」
「──っ!」
彼女の一言に何も言えなくなる。『何も出来ないと分かってても』、それは今俺が確かに考えていたこと。いわば保険だ。
自分が失敗をしたとしても、何も出来ないのは分かってたなどと口にすれば罪は軽くなる──そう思える。逃げただけなのに。
「分かった。そのお節介に、少しだけ手伝ってあげる」
「本当か!」
「ただし、条件がある」
千聖の言葉に舞い上がりそうになる俺に指を向けて、不敵な笑みを浮かべる。
「私を、捕まえて」
「──は、って、おい!」
それだけを言い残すと素早く窓から飛び降りた──ここは一階だから飛び降りると言うほどでもないが──。
俺はすぐに追いかけるべく教室を飛び出した。
ジャージを着た生徒などと度々すれ違い、奇怪な視線が向けられるが、それも気に止める事なく無我夢中に走る。
千聖が出ていった場所は昇降口とは真反対で、本当にそういう所で性格が出ているなと思う。
そんな悠長な事を考えていると、気付けば昇降口にたどり着いていた。
すぐに靴を履き替えて外に出る。
陽光の眩しさと、野球部の掛け声、吹奏楽部の楽器の音色が混じり合って放課後特有の騒がしさが耳朶を打った。
「くそ、千聖のやつはどこに」
悪態を付きながら地を蹴って再び走り出す。
次々と流れていく景色の中に千聖の姿は見受けられず、先程の教室を目指して足を進める。
俺は僅かだが、焦燥感を抱いていた。彼女に逃げ切られる事への危機感のようなモノと、俺の本当の目的を知られる可能性があったからだ。
目に入りかけた汗を乱暴に拭って、角を曲がる。
そこを曲がればすぐ先程の教室が見え──
「がはっ!……走るのは苦手なんだよ」
不意に苦しさが胸を突き、背中を丸めて咳き込む。落ち着く気配が見えず、何度も何度も咳き込む。激しい咳の影響で喉がキリキリと痛む。
視界が揺れ、固い感触が肩を打った。しまった、そう思ってももう遅い。既に体の自由は無くなって、ただ拙い呼吸を繰り返す。
──水
そう求め、声もまともに出せない状態の俺は、ただ胸の辺りを抑えるだけ。
「……大丈夫ですか?」
俺はその声は幻聴だろうと初めは思った。だが、その声は一度だけでなく、何度も俺に呼び掛けて来て、そこで初めて本物の人の声だと気付いた。
「み……ず」
辛うじて声を出すことが出来た俺は、急いで自販機の方に走って行くのを確認して、深い息を吐き出した。
***
その後、水を購入してきた人影が見えて、今度こそ安堵の息を吐き出した。
その人物に協力してもらい、上体を起こして水を一気に煽った。冷たい水が喉を通っていき、暑い喉が一気に冷えていく。壁に背を預けて瞑目する。
やがて思考もはっきりと鮮明になってきた所で目を開いた。
水を買って来てくれた人物に視線を向けると、心配そうな目でこちらを見る少女が目に入った。
茶色の少しパーマの掛かった髪の毛に赤いリボンをあしらい、髪の毛と同色の瞳をした少女。3年の中にこのような少女は見たことが無い、おそらく後輩だろうと察しが付く。
やがて少女がおずおずと言う風に口を開く。
「あ、あの、体調の方は大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だよ。それより、ありがとう」
俺が礼を伝えると、照れたように頭を下げる彼女。実に素直で面白い。
「私、桜崎桃井って言います。2年です。よろしくお願いします、先輩」
「俺は秋風翔哉、よろしく。……ところで、君の他に俺のことを見てた人とかいないよね?」
「え、はい。私だけだと思いますけど」
俺が聞くと、少しだけ不思議そうにしながらもすぐに答えてくれる桃井。協力的で助かるのだが、友達がいないのではと若干心配になる。
と、そこで自分が人の心配などしている暇など無い事を思い出した。
──だが、もう決着は着いている。
「見付けたぞ、千聖。大変な事にしやがって」
「う……」
俺たちが先程いた教室──3年2組の窓を開けて中に入り込むと、銀髪の少女が目に入った。
千聖だ。
彼女は、窓から飛び出し、遠くに逃げたかのように見せかけ、俺が教室から出たのを見計らって再びま窓から戻ると言う古典的で、そして『つまらない』方法を敢えて選んだ。
本当に性格が悪い。
「ここからは俺の番だ。……もう分かってんだろ?千聖」
「るさい……うるさい!知らない、知らない!私はただ現実から目を逸らしているだけの『独りぼっち』なんかじゃ無い!」
耳を塞いで首を振る千聖。それは誰が見ても、助けを求める少女にしか見えなかった。
不意に胸ぐらを掴んで、息の掛かる距離で睨んで来る千聖。
「ちょっと……」
それを見て止めにかかって来る桃井を手で制し、真正面から千聖と向き合う。
それに桃井は入って来ては駄目だ。
こんな腐れ切った先輩の、腐れ切ったぶつかり合いに、純白の彼女が。
「良いぜ、千聖。お前の言葉を聞いてやる」
迷い失い、そして『天才』だけを手に入れた『ただの少女』を助けるだけのつまらない物語の続きを描こう。